陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

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2016/12/21 (水)

左翼の本質

左翼的思考をされる方、リベラルを標榜されるような方々
なぜ、そのような見方をされるのか
なざ、その様な判断をされるのか
その原因はどこに有るのか考えてきました

比較的頭脳明晰な方が多く、しかし、私の目から見て明らかに間違っていると見える判断をされていることに不思議を感じていました。

何がどのように違うのか、現時点で私が理解している理由は次のようなモノになります

一言で表現するならば
「左脳的なものだけ鍛え、右脳的なものを鍛えてこなかった」
画像の説明

①知識を記憶することに頼り過ぎて「なぜ」と言うキーワードをあまり使うことをしなかった
②記憶し計算する能力が高くなり、結果が出しやすくなった反面、深く考えるということから離れていった
③その結果、目に見えにくい部分を見ない傾向が染みこんだ事
④その結果、真理を求める気持ちが減退した事
⑤その結果、先の事(時間)や他者の事(空間)ことを見る目が狭くなった事
⑥その結果、信仰心につながる発見が出来ていない事
⑦その結果、人間、自分、を中心にしか考えることが出来ない事
結局、主なるものを自分たちの中に置いてしまっている事が原因であり
要するに、今、ここに生きている、自分が、人間達が神様なのです。

その結果、エゴイストの人間が出来上がってしまった

神様や仏様やご先祖様、天にある存在達から見られて居るということを忘れ去り
日本の武士道の中に流れていた「恥を知る」という文化が廃れてきている

「信仰心」というキーワードがどれほど重要なモノなのか
動物と人間を分けているのは、知識の量ではなく、能力の差ではなく
信仰心を持って生きているかどうかです。
左翼傾向のある人は、信仰の対象が、自分であったり、結果であったり、お金、御利益であったりするのでしょう
信仰と言えないようなモノに依拠した生き方をされているはずです

本当の信仰心無き人は、「宗教」を見るにも、自分(人間)からの願いしか見ない傾向があるようです
宗教とは、頼るモノ、すがるモノ、安心安寧を得ようとするモノとだけ見る傾向が有ります

物事には、本当は、2つの面が必ず有ります

宗教の中には、神仏の願いが在るのです
政治経済を考える中にも、この神仏からの視点を忘れてはならないのです
神仏の願いと個人の願いは、同じようであり違う面も在るのです
見られている視野、その時間と空間がとても広いのです
私たち人間の視野は、どうしても狭くなります
良かれと思って判断した事が、恥ずかしいばかりの自己中の考えだったりします

時折、神仏の願いがどこに在るのか考える必要が有る
これが、まさしく「正しき心の探究」であり
この探求する姿勢を忘れると自分の正しさの探求ばかりをするようになってしまいます。
これは幸福の科学で会員としての資格要件であり、
この姿勢を忘れた時に全てが狂ってくる。



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2016/12/19 (月)

フラクタルの森

フラクタルの森は、マンデルブロのfractal数学と陰陽学とPCの二進法に関連して導き出されたものです。
実際の人々の判断や行動を見ても二択の重なりで成り立っています。
ということは、何であれ物事を考えるということは5w2hの中でもそれぞれに最低でも二つの視点で見ることが要請されるということです。

結論的に言うならば、これらの構図は、人間の中に創り込まれた右脳と左脳がクロスして全体を統御するシステムと深く関連しているように見えます。
考え行動するという単純なことがシンボリックに表されている部分ではないだろうか。

左右の目はそれぞれ左脳と右脳につながり、さらにクロスして反対側の脳にもつながっています。
まるで無限大のマークのように
この4つの位置関係はこの構図の中に5W2Hを割り当てることもできます。
しかも、この構図を上から見ると、まるで、ピラミッドです。
見て、思って、行動して、結果が出るという 四面が、いつ、どこで、だれがという背景が頂点、交点としてつながっています。正確に細かく考えるならば、このピラミッドの中で考える必要があります。
これは、釈迦の悟りの原点である四諦.八正道とも相関関係にあり事象を精密に見ようとすれば、とても大事なことです。
( 八正道ー正見 正思 正語 正業 正命 正精進 正念 正定)

画像の説明

分かりやすくおおざっぱに言うならば両目で見てその交点である第三の目で考えるということです。
白紙の上に二つを並べて見る。
しかし、これだけでは、どうしても意見の隔たりがあるときには自分の見方考え方が主となります。
できるならば、白紙でなく神仏(全人類を我が子と観ておられるようなそんざい、地球神を想定して)を背景にするべきです。

何事にも、必ず2つの要素があります。
抽象的なものにも具象的なものにもあります。
陶芸の熱にも光(原因)と風(結果)があるように

時間(原因と結果)
画像の説明

空間(他者と自己)
画像の説明

人間(感情と理性)
画像の説明

これらの環境の中でジタバタしているのが私達です。
しかし、結局のところ、陶芸作品であれ人生も社会も突き詰めて考えるならば
全てが「思いと行い」で出来ています。
設計図とその具体化された製品です。
結局は、何らかの不都合なことが起きているとするならば
その、思い(設計図)と行い(製品)を反省する必要があるのです。



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2016/12/9 (金)

深く考えること

画像の説明
そもそも、考えるとはどういう事か?
現代人の特に優秀な方がたを見ていると、
深く考えることなく表面的なことだけで結果を出されているように見えます。

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2016/12/8 (木)

2016年エルカンターレ祭の圧巻の御法話

http://the-liberty.com/article.php?item_id=12300
安倍首相が12月末に真珠湾慰霊の予定だが
歴史を直視しない「和解」は無意味である

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