陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

フラクタルとは

フラクタルとは

フラクタルという言葉は、フランスの数学者マンデルブローから出た言葉。
昔、TVでこのフラクタル理論とその活用の実際が紹介された報道番組を見て興奮した記憶が有ります。数学は門外漢ですので細かなことは分かりませんが、この宇宙の秘められた部分、その神秘をかいま見たような気分がしました。

それは、大自然の中にも数学があって、地形なり動植物などの映像でも、離れていたり何らかの影響でそのデーターが不鮮明だったりしてもその周辺の映像をもとに一定の法則(変数)を割り出し計算させながら完全な映像に近づけることが出来るというのです。

私は、その当時、この宇宙は、この地上も含め混沌を極め不可思議なことに充ち満ちているという見方しかできていませんでした。しかし、その反面この宇宙には全てを貫いている一定の法則が有るのではないだろうかという思いもありました。人生に迷い、人生とはなにか?訳が分からなくて悩んでいた頃でした。カオスとも表現される世界なのに単なる映像であっても数学で計算されるということに驚きを感じたのです。

「計算が出来るんだ!」

人生自体も、社会も、混沌としているように見えるけれど、
この画像処理と同じようにひょっとしたら数式化することも、
本当は可能なのではないだろうか。
人生上の出来事を偶然とか、たまたま起こったように言ったりしますが、

本当は、数学や化学、理科の実験の如く
偶然に結果が出ることは無いのではないか。
それは因果関係が分からなかったと言うだけにすぎないのだろう

「今」という時間は、現にここに在るけれど、その時間は流れながらも今という時間を中心に過去と未来は「=」で数式の如くつながっているのではないだろうかとも思いました

「過去=今=未来」

予知夢みたいなことを見る事が有るけれど、イコールでつながっているから直感的に分かる事もあるんだろうと思っていました。
であるならば、「今」を変えることが出来れば未来も変えられる。
過去の事実は取り消すことが出来なくても、今の何かを変えることで過去の意味も変わる。そんな風に思っていました。
フラクタルは大きなヒントでした。

フラクタルとは辞書で見ると次のように出ています。

フラクタル ・・・部分と全体とが同じ形となる自己相似性を示す図形         破片・分割の意のラテン語からの造語。
フラクタル理論・・・複雑で不規則な図形では、どの微小部分にも全体 
 と同様の形が現れる自己相似性があり、したがって部分を次々に拡大す れば全体の形が得られるとする理論。コンピューターグラフィックや、樹 木・海岸線・山脈などの形のシミュレーションに利用。
フランスのB=B =マンデルブローが提唱。

ここでフラクタルという言葉をタイトルにしているには、やはり大きな意味があります。数学は全くセンスが有りませんが、この宇宙には定理みたいなモノが有るのだろうと考えました。

このフラクタル理論から得たキーワードは「自己相似性」。
似ているということ。
部分と全体が似ている。
ミクロとマクロが似ている。
ミクロの中にマクロと共通するモノがある。
顕微鏡で見るモノと天体望遠鏡で見るモノと似ている。
ということは、その中間に存在するものも似ているはずなのです。

聖書の中で「神は自らに似せて人間を創られた」と言われます。
何のために宇宙が創られ
何のために人間という存在が創られたのかは分かりませんが
神様が陶器でも創られるが如く
ひとつづつ、一人でコツコツと創られているとは思えません。
ある理念を投網を打つが如く投げ出され、その理念が自己展開しながら広がっているという見方の方が近いはずです。

ということは、人間の中に在る要素は宇宙の根本的な真理に通じているモノがあるのではないだろうか。
この宇宙を貫いている「真理」と私達の身近に有るものと無関係ではないと思えたのです。
少なくとも、私は、いま、そのように関連づけて認識しています。

私は、子供の頃から「真理」という言葉にあこがれがあり、その真理という言葉を、宇宙方程式という言葉に置き換えたりして詩を書いたりしていました。
しかし、真理を求めたいという気持ちは有りながら、人生の前半、私は無神論者でした。
不思議な霊体験のようなことやユリ・ゲラーなどの超能力ブームに触発され、透視力や念力の事にも関心があり訓練もして、確かに不思議な世界が有るということは実感していましたが、
しかし、無神論でした。宗教も大嫌いでした。
そして「神の否定」というような文章を書いたりしたこともあります。
そのギャップゆえか人生に迷い、銀行勤めから始まり様々な仕事を体験し、色んな考え方の人との出会いがあり、
様々な体験をし紆余曲折した生き方をしてきました。

30代後半に精神世界にさらに入り込み、前世の記憶の断片を意識し始め、陶芸家として土と炎と対峙しながら、多くの学びを重ねることで物事がより立体的に見られるようになった結果「信仰」ということとも真剣に取り組むようになりました。
しかし、それでも、信仰という言葉は辞書的には理解できるのですが、とても腑に落ちなかったのです。うたぐり深い性格なのか「何故?なぜ?」という思いが強く探求を続けた結果生まれてきたのが、
このフラクタルの森で説明するところの考え方です。
このフラクタルの森で説明しようとする理論は、なんだか、こじつけているだけに見えるかもしれませんが、とても整合性が有ります。

この森の中で考えるということが、安全に人生街道をドライブすることに役立てていただけると信じて下手な文章を書こうとしています。険しい山道のような人生、この混沌とした世界の中で、車を安全に快適にドライブすることにつながっていくと思います。

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