FrontPage/2023-05-26
教育論とフラクタルの森
教育の本質は、社会生活で必要なモノを学んでもらい役立ててもらうことだろう
年齢によっても違いが有るだろうが、徐々にレベルを上げていくものだ
そして、大人になって到達できていないと困るレベルが有るということ
人間としての基本を理解できていなければ、どれだけ専門的な教育を学んでも意味をなさないことも有る
人間とは、基本、環境の人でしかない
備前焼でも窯のどの場所で焼けたのかで表情は違う
人間も、どのような環境で何を吹き込まれたかで違いが出る
教育とは、ある意味暗示でありスタート地点では、ただ受け入れて認識する
それらの素材を使い考え、関連付けて、見えていないモノを推測して、自分なりの認識につなげ、知識を立体化していく過程が有るだろう
問題なのは、吹き込まれた知識を杓子定規にしか理解しておらず、応用も活用もできなくて、記憶した情報だけを基にして、それ以外の認識が出来ないということ
たとえば、ウクライナ紛争でも、日本や西側諸国では、ロシアが悪で、ウクライナはかわいそうだという報道を記憶し、ロシアを擁護するようなことを言えば、たちまち非難を浴びることになる
コロナワクチンでもそうだけれど、政府やマスコミは打つのが当たり前で撃たない人は非国民で有るような認識に染め上げられていた
放射能でも、怖さを刷り込まれ、少しでもあれば問題かのように暗示をかけられているが、違った情報を知れば放射線はすべてのモノから出ていて、逆に必要不可欠なモノでも有るようなのだ
要するに、教育とは知性を高めるものでは有るけれど、同時に「無知の知」を理解させる必要が有る
高等教育を受けた人たちには、特にそのことが言える
中でも、頭が良く優秀な人は詰め込んだ知識で、その暗示を受けてしまい、自分の知らないこと、理解できないことを無視する傾向が強くなる
今日、ユーチューブで教育論について話しているのを聞いたけれど
大学教授とか、社会的地位の有る人たちの議論を聞いていて感じたのは、難しい言葉を使うけれど、表面的で浅い議論で意味が有るのだろうかという疑問だった
頭がついていかずカスミがかかったままで終わる
私は、人の話を聞く時に、どこを話しているかを考えながら聞くようにしている
「なにを」の課題に「教育」を入れて全体を見るようにしている
聞いていて面白くはなかった
どうしても、どのようにしてどうしたい、あたりの話になり専門用語が出てくる
論を論じているだけで要点がつかめない感じだ
教育を原点に帰り考えると
教育者で、最高の存在は、釈迦牟尼仏だったろう
この図には、釈迦の八正道を出している
これで、釈迦弟子たちは教育され、自分の力で問題解決し、認識力を高め人々を導き救う力を授かっていた
同時に見えない世界、霊的世界の真実を教え
死後、地獄という世界に落ちる人たちを減らしていく教育が
現世に生きている人々の間での幸福に関わってくることを教えていたように、とても深いのだ
教育を論じるにあたり、大切なことは何かというと
正しいことを教えるということだ
正しさの基準を知らない限り、何が、どう正しいのかわからないだろう
正しさは、人、時、所によって違ってくる
各個人の正しさを見る必要が有るけれど
神仏、創造主から見た正しさを同時に入れなければ、どこへ向かってハンドルを切っているかわからなくなる
たとえ原子力の作り方を知りえたとしても、どんな科学知識を体得したとしても、その正しい使い方を知らなければ問題がある
何事にも良い子、悪い子、普通の子が有るように
善悪の価値観が正しく理解できなければ無意味となるだろう
こうやって考えるなら、教育とは何かというと
真・善・美の価値観を学ぶために必要であり
八正道のように、個別に点検しながら
一人一人が、悟りを深め美しい人生を生きるために必要な事だということ
そうやって考えると、教育の最たるところは「真」
真偽を学ぶことなく手段をどれだけ学ぼうと無意味だということになる
私たちが生きている「世界」の真実を学ばなくて
なにを教育と呼べるだろうか