陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2019-02-05

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情報と認識と現実

情報を伝えるために押さえるべき事として
5W2Hなどが言われるように
ポイントをしっかり抑える必要が有る

その情報が伝わりそれぞれの認識となるのだが
その伝わると言うことは
人時所によって違った伝わり方をするものだ

その伝わり方で様々な認識が生まれ
様々な現象を産み出していく
要するに、同じ情報でも同じには伝わらないと言う現実がある

画像の説明

では、何が違ってどのような伝わり方をするのか押さえておかなければ
その違って伝わった認識がそれぞれに反発しあうことにもなる


では、どのように違ってくるのかを考えてみる

上の図を大きく分けると
①世界(いつ・どこで・だれが)の中で
②思い(設計図・動機)と
③行い(具体化・行動)が
あって世界は変化していくということになる

変化の違い、結果の違いは
順番に見ると③の違いがもっとも大きいけれど
それは②の違いが背景に有ることは理解できるでしょう

その思い②の違いは、①の中の「だれが」の部分が大きく作用します
主体が違えば違ってくるのです

主体の違いが大きく影響するのは、立ち位置(どこで)の違いです
もっとハッキリ言えば利害の違いです
この利害の違いも時間軸(いつ)で変わり
時間と空間の違いが判断に大きく影響します

私の思い、私の考えではこうだけれど
隣人の思いや考えは、同じではありません
その違いの原因は、個性と言っても良いのでしょうが
生い立ちの違いであったり、立場の違いがあります
そして、その考えは、それぞれにとって正当なモノでは有るでしょう
そのそれぞれに正当な考えが時にしてぶつかり合い争いを産み出します
それが国レベルでは戦争にまで進んでしまう場合もあります

その場合、明らかに主体の違い、その利害がぶつかり合うことで起こります
それぞれの主体における個性の違いだけでは紛争には至りません
要するに思想信条の違い、宗教の違いだけでは
それぞれに内心の自由、心の中の自由なので争いにまでは至らないのです
ただ、それが現実の利害にまで進んでいくと問題は違ってきます

ハッキリと利害の対立が起きてくると
それぞれの世界観(思想・信条・宗教)の違いが分離を生み拍車を掛けていきます

要するに主体(だれが)の違いは
現実の立ち位置(時間・空間)の違いが背景に有りますが
これは現象面での時間と空間です

国レベルで言えば、先進国と発展途上国の違いでもあり
個人レベルで言えば、年齢や立場、収入の多寡など色々あります

もう一つに、先ほど上げました世界観(思想・信条・宗教)の違いが背景に有ります
これは、心象面での時間と空間です
ここの違いが、本当は、一番影響力があるのですが
普段は、余り議論もされず話に登っても来にくい為に無視されがちですが
ここは、最重要課題なのです

ここの違いが、主体(人間・自分・他人)をどう見ているかに深く関わり
全てに大きな影響を与えていくのです
たとえば、
世界観(思想・信条・宗教)を乱暴に大きく分けると
有宗教と無宗教の考え方があります
有宗教の場合は、中心になる考えの主体が神様や仏様などになります
無宗教の場合は、中心になる考えの主体は自分です
それ以外はありません
他人を考える場合は、自分がやりたいことを実現するための
客体としてしか見ることは出来ません
この違いは、とても大きなモノが有ります

しかし、宗教者であっても
考えの主体を神様において常に考えようとする人は少ない現実もあります
宗教的指導者であっても神や仏を客体(課題)として利用しようとする場合が多いでしょう

宗教の場合でも、これは人間の持っている課題でもあり宿命なのかもしれませんが
どうしても、自分という立場で物事を考えるのです
神様を利用しようとする人は後を絶ちません

しかし、
過去の偉大な宗教者や思想家達は、自分の命すら捨てることをいといませんでした
あの吉田松陰の人生を見ても
天下国家のため万民の為のみならず将来の日本の為に命を捧げました
彼の主体と成して居たのは、どう見ても理想を見、神仏を主体として見ていたとしか思えません
彼の自分という主体の中に有ったのは、日本を愛し、理想を愛した神仏です

現代における
政治的、経済的な意見の違いを見ても
根本原因は、
この心象世界にあると言っても良いのです

この吉田松陰や坂本龍馬達を
学校教育の教科書から外そうという意見が有るようですが
まさしく、目に見え難いモノを無視するような考え方が蔓延しているのです
結果主義、目に見えた成果ばかりで判断しようとする風潮が強くなっているのでしょう

消費税増税など典型的です
松蔭のように神仏を主体として深く考えるなら
有り得ない話です

表面的な意見の違いだけを議論しても無理なのは
この根本の世界観が狂っているからなのです

もちろん、二つの視点は必要です
有宗教が正しいのか
無宗教が正しいのか

無宗教の世界観が正しいとするのならなにも言うことはありません
智恵と力の強いモノが勝つ世界です
動物の弱肉強食の世界

それだけであるのなら
神仏なる存在からの恩寵は期待するべくもありません



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