陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

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想定問答(神仏の有無)

私は、宗教の世界に入ってからもしばらくは「信仰」の意味が分からなかった
その理由は、信仰というものを片目でしか見ていなかったからだ

信仰にも、2つの面がある
ひとつは、ご利益(結果)が有ること            ・・・陽
もう一つの側面には、その結果を生む要因(原因)があること ・・・陰

なんでもそうだが、人は、どうしても表面的なもの、目に見えやすいもので物事を判断する
ご利益(結果)は、大切だが、その反面の、なぜご利益が有るのかという要因(原因)の部分を深く見ることが出来ないでいる
どうしても見えやすい部分ばかりを見ようとする

私が宗教嫌いになった背景には創価学会の存在が有ったようだ
ここの問題点は、ご利益の原因を、南無妙法蓮華経と唱えるお題目でご利益を得ようとする

ご利益がいただけるためには、
深く信心すること
他宗ではだめで創価学会に入信することが大切であり
他宗の仏壇などを捨て日々の勤行が大切だという
もちろんその背景には心の教えも有るのだろうが
脅しに近い部分もあり、深く「なぜ」「なぜ」と探求されず
思考停止させた状態で北朝鮮のようにアメとムチで暗示にかけている
「なぜ」と問いかける答えが「どのようにして」という表面的な所で止まっているのだ

深く考え、「なぜ」を繰り返していくと、ご利益(結果)が起きてくる原因は、陰の世界に有ることが分かるのに、「なぜ」ご利益が有るのかの翻訳が「どのようにすれば」という陽の部分で止まっている

「何故」を突き詰めて行くと、思いであり、心の態度であり、設計図です
宗教の大事な側面は、真理の探究であり、心の修行であり、自己変革です
私たちが住んでる世界の真実と、私たち自身の真実を求め
神仏が私たちに何を求めておられるのか探求することです
神仏から見た正しさを探求すること、「正しき心の探究」です

しかし、どうしても自分の、自分たちの正しさの探究ばかりをやってしまいます
現状、世界のすべての宗教は、おそらく同じレベルのモノが多いでしょう

私自身の認識も同じレベルを超えていなかったために「幸福の科学」が宗教法人となった時にイヤでした

今、考えれば恥ずかしい限りです

結局は、「神仏がおられ、私たちが神仏の子供である」ということを理解していなかった
単純に、人間の親子の関係で推察しても
最高の親が、子や孫に何を願われているかは推測することが出来る
陶芸作品にも作り主がいる
どんなことを願い作品が造られるか考えてみると
いろんな個性があったとしても何らかの意思がそこにはある

一言で言ってしまうなら、
おそらく
「素晴らしくなってほしい」と願われていることだろう
人が神仏が願われている方向に素晴らしくなったら、
良きことがどんどん起こって来るのは当然のこと
ご利益が有って当然のこと



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