陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2017-08-07

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信仰の本当の意味

以前、私は「信仰」の意味が分からなかった
辞書レベルの意味は理解できるが、どうしても腑に落ちなかった
その理由は、信仰というものを片目でしか見ていなかった面と
神という存在を本当に信じてはいなかったことにあるようだ

神仏がおられ
神仏の子としての私たちが居るということをリアルに信じていなかったことを認めるしかない
そのために神仏の願いがどこに有るのか
神仏のお心がどこに有るのか深く考えることが出来ていなかった
漠然と自己を中心に信仰の対象を見ていたために神仏がはっきりと見えていなかった

自己を主体として
自分を中心に置いて信仰を考えていた
そのために、結局は、ご利益のことしか考えていなかったようだ

信仰に陰陽2つの面がある
ひとつは、ご利益(結果)が有ること            ・・・陽
もう一つの側面には、その結果を生む要因(原因)があること ・・・陰

なんでもそうだが、人は、どうしても表面的なもの、目に見えやすいもので物事を判断する
ご利益(結果)は、大切だが、その反面の、なぜご利益が有るのかという要因(原因)の部分を深く見ることが出来ないでいる
とにかくご利益を求めるばかりになる
どうしても見えやすい部分ばかりを見ようとする

私が宗教嫌いになった背景にはある宗教団体の存在が有った
ここの問題点は、ご利益の原因を、南無妙法蓮華経と唱えるお題目でご利益を得ようとする

ご利益がいただけるためには、
深く信心すること
他宗ではだめでその宗教に入信することが大切であり
他宗の仏壇などを捨て日々の勤行が大切だという
もちろんその背景には心の教えも有るのだろうが
脅しに近い部分もあり、深く「なぜ」「なぜ」と探求することなく
思考停止させた状態で北朝鮮のようにアメとムチで暗示にかけている
「なぜ」と問いかける答えが「どのようにして」という表面的な所で止まっているのだ

「なぜ」を何度も繰り返していく必要があるのです

「何故」を突き詰めて行くと、思いであり、心の態度であり、心の設計図の所に行き当たります

宗教の大事な側面は、真理の探究であり、心の修行であり、自己変革です
私たちが住んでる世界と、私たち自身の真実を求め
神仏が私たちに何を求めておられるのか探求することです
神仏から見た正しさを探求すること
正しき心の探究」です

しかし、どうしても自分の、自分たちの正しさの探究ばかりをやってしまいます
現状、世界の多くの宗教は、このレベルのモノが多いでしょう

結局は、「神仏がおられ、私たちが神仏の子供である」ということを本当には理解していないのでしょう

雷が落ちるにしても天にだけ原因がある訳ではありません
地上にも雷が流れるための要因が有ります
地上の願いと天の願いの2つがある

では、神仏の願いがどこに有るのか

単純に、人間の親子の関係で推察しても
最高の親である神が、子や孫に何を願われているかは推測することが出来る
陶芸作品にも作り主がいる
どんなことを願い作品が造られるか考えてみると
いろんな個性があったとしても何らかの意思がそこにはある

一言で言ってしまうなら、
おそらく
「お役に立ってほしい」
「素晴らしくなってほしい」と願われているのだろう

神仏の心を心として
人が神仏が願われている方向に向かっていくなら
良きことがどんどん起こって来るのは当然のこと
ご利益が有って当然のこと



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