陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2024-05-12

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予言

なぜ、予言なるものが存在するのか
「予言」が取りざたされる背景には、実際に当たっているという現実が有るからだ。


ノストラダムスの予言の頃から関心は有ったけれど、なぜ、かの有名な詩が地球滅亡を意味しているのか不思議だった。1999の7の月…の詩編は、習近平の背後で働く闇の存在が働き始め世界を滅びに至らすと、今ではそのように思って居る。

私も限定的ではあるが予知夢的なモノを見ることが有る。
今使っている井戸を見つける時もストーリー性のある夢を見た。
ただ、翻訳を間違えれば井戸の事とは理解できなかったろう。
ニュースで行方不明者のことを知って、その人が今どうなっているのか考えていると夢で見ることが続く時期もあった。多くが、その後の状況を知って、そういうことだったのかと理解できるような映像しか見れていない。近場で行方不明の人が出た時に何例か実際に行動を起こして探そうとしたことも有ったり、見えたことを関係者に伝えたことも有った。
ただ、詳細が見えたことではなく、最近はそのようなこともなくなっている。

しかし、そのような不思議な事があっても深く考えることはできなかったけれど、幸福の科学で真理の学びを深め、量子的な世界観を加味して考える時に、過去の不思議な経験が役に立つ面が有る。

私たち自身の存在も神の存在もこの宇宙の存在も不思議だけれど、アカシックレコードなることが言われるけれど、ある意味、レコード盤に例えることが出来るのではないだろうか。
過去も現在も未来もレコード盤に記録されている。
そのレコード盤自体が神そのものであり、私たちそのものである。そのレコード盤が立体的に重なり、昔あったミュージックボックスのようにレコード盤が自動的にチェンジされる。
マルチバースとかパラレルワールドとか言われている現象もそれによるのかもしれない。
一枚のアカシックレコードの中の全体を感知できれば未来も予見できる。
しかし、その未来は人々の思いのレベルが一定程度変化すると全てが書き換えられる。
個人レベルでも思いが変われば未来は変わるように、全体の未来も変わる。本来、時計で測れるような時間が存在しているのではなく、ただ順番としてあるだけとも言われている。思いの中身が変われば結果も自動的に変わるようなものだろう。

このレコード盤自体が神そのものであり、神の子の私たちそのものであり、万象万物のレコードが立体体に重なっているようなものかもしれない。

別の表現をすれば、神の波動の中で私たちの波動も存在しているということ。誰でも色んなことを予感することが有るだろう。未来は同時にその中に詰まっているために「予言」ということが成り立つのだろう。
これは、ある意味警告として神から与えられていることかもしれない。
教訓として結果が与えられ、その中での修行が期待されているのだろう。
事件や事故も教材として与えられ、教訓としても与えられているようだ。

綜合的に考えると、どうやら始原の神、エルカンターレは、私たちが発する「思い」のエネルギーを期待されている。どんなに小さくても、思いという波動が根源なる力であり続けるために、この宇宙は一体として存在している。
全ては、フラクタルとして、自己相似的につながっている。



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