陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2024-02-05

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原因の前に有るもの

光は「波」であり、「粒」としての性質と共に有るとは、量子力学の世界で証明されている。この光の性質が全てのミクロの世界に有り、全てのモノに関わっているという。

光を粒として感じることは、何となくできる。
しかし、波として直接知ることは無いかもしれない。
ただ、光の温かさであり、その光が植物を育てているということは経験上知っている。これは翻訳の問題だけで、全て同じことなのかもしれない。


波とは何かというと、振動であり、振幅が有り、波長が有り、強さがある。波をイメージすると色んな事が思い浮かぶけれど、最初にレコード盤のことが浮かび上がってきた。
レコード盤の不思議である。

レコード盤は、その盤面に刻まれた線を針がなぞり、そこに刻まれた振動をゼロイチのデジタル信号として増幅して私たちの耳に聞こえるように大きくされている。
エジソンがレコードの仕組みである蓄音機を発明したときの映像が残っている。そこでは円筒形の筒に何かを塗って、そこを針を滑らせながら音を刻み込む。そこをまた針を滑られることで音の振動を拾いラッパのような拡声器を使い再生していた。

これは、単に波を刻み、その波をなぞって再生しているだけのことだと言えるけれど、なぜ、言葉とか音楽を一本の線の上にコピーできるのかとても不思議だ。しかも正確に、再生できるとはどういうことなのか。
それは、波を粒として表現できるということ。波を粒として翻訳できるということなのか。また、粒を波として翻訳できるということなのか。

見えている姿は、一本の線だ。その線に振動という凸凹を刻み込めれば、その情報を記録することが出来る。そして、あの繊細な音楽も人の声も正確にアナログ的にも記録できて、デジタル的にも再生できるし、はなからデジタル信号として取り込みCDなどのように再生もできる。

どちらにせよ、最初に有るのはデジタルにしろアナログにしろ、同じく振動であり、波であり、耳にすることのできる会話であり音楽だ。
その不思議な現象には、科学的に再現できる事実が多く有る。
しかし、そのような現象自体も深く考えるなら不思議である。

おそらく、映像としても翻訳すれば同じ事が有って、アナログ現象をデジタルのゼロイチの情報として記録して再生されているのだろう。

フラクタルの森的に考えるなら波も粒も同じであり、翻訳の違いでしかない。では、一体何を翻訳しているのかという問題が有る。

音にも映像にも、そこには情報がある。
また、情報とは何だろうかと考えると、様々なモノがあり、人間が感じ取れるような不思議な力が有り、エネルギーがある。
当然、逆からも言えることで、人が発する思いに情報があり、エネルギーが在るということ。
その思いの力で色んな発明も成され、政治や経済の実態をも造り上げている。この思いという情報はとてつもない力を持っている。

レコード盤に有る情報(波)と現実(粒)としての音楽を起点として深く考えるなら、どんな音楽がこの現実世界で奏でられているのかという問題が有る。どのような声が鳴り響いているのか。それらがどのような力を持ち社会にどのような影響を与えているのかということ。

全てのミクロの存在に有る波と粒の性質は、全ての全てに関わっている。
E=mc²で分かるようにエネルギー(波)と物質(粒)とは等価である。
波(人々の思い)をどのように統御できるのか、自らがそのエネルギーの統御が出来ず、方向を間違え暴走させるなら、原爆や水爆と同じような威力を社会に及ぼすだろう。それは、また逆にも働くことだ。

レコード盤のことを考えても、そこに有るのは音楽や人の声である。
その音楽や人の声の前に有る原因は何かというと、そこには、人の思いが有り、その思いの質が有り、エネルギー量がある。

そして、その中身を左右するのが「世界観」である。
唯物論、無神論の場合と、唯心論、有神論の違いはとても大きい。

真善美



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