陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2023-09-06

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自分の存在の不思議を知ること

無知の知の重要さでもある
知らないことを知っているということ

自分が何者であるか、本当には知らないでいる


今、確かに自分と認識している存在が有る
色んなことを見て感じ行動する「私」が居ることは分かる
しかし、なぜそのような自分が存在しているのか
答えを出すことは出来ない
しかし、どんなに客観的に考えても在ることをただ認めるしかない

他人もそうだろう
意見が違って、ときに対立することが有ったとしても
彼らも同じように存在する
そして、それぞれの正しさを基にして生きている

その自分とは何であるのか
分からないことは棚に上げ、分かることから答えを推測するしかない

私という存在は、この意識している存在と同時に
私という存在を支えて、私という肉体がある
この肉体ほど、また、不思議なモノは無い

科学が進化して、色んな分からないことが分かってきている
私の様な素人でも、この肉体の不思議を考えるなら気が遠くなってしまう
医学の専門家なら、その不思議を見るなら、もっと気が遠くなってしかるべきだと思うが、逆にそうでもなさそうだ

おそらく、専門家は、知識という情報を記憶して活用するために「なぜ、どうして」と掘り進めることができなくなっているのかもしれない
左脳的知性理性を活発にすると、右脳的悟性感性が休んでいるのかもしれない
ただ、記憶して活用する水平的な面と、なぜ、どうしてと掘り下げる垂直的な面と両方が必要なのだと思う

この三次元の現象世界という中において、現代は、あまりにも表面的な生きやすさを求めるあまり深く掘り下げることをしにくい社会になっているのかもしれない

時に足を止め、足元を見直すことも必要なのだと思う
しかし、足元を見つめても答えは見つからないことの方が多いだろう
しかし、答えが見つからなかったとしても、無知の知という謙虚さを見つけることは大切だと思う

全ての「なぜ」の奥底には、目に見えない神というか、創造主の存在を認めるしかないからだ
この肉体という小宇宙の中だけ見ても、分からない
この大宇宙を見ると、なおさら分からなくなる

ただ、私たちの小宇宙である肉体に秘められている不思議は次第に明らかにされつつある
始まりを考えても、この肉体は、一個の細胞から始まり出来ている
その細胞の中に、この体へと成長しその機能を働かせる情報が、一体どこに記録されているというのだろうか
DNAという遺伝子に書き込まれているというが、その本能も含めて、どこにどのように描きこまれているのだろうか
植物の種にしろ昆虫たちの卵にしても、その姿形だけでなく、その働きまで見て、その情報がどこにどのようにしまわれ、どこでどう働くのか分かってはいるまい

当たり前に、そこに在るから在るとしてしか認識できないとすれば、その知性は一体どれだけのモノだろうか
この存在が偶然に出来たものとして、ただ受け入れているなら、その知性とは、いったいどれだけの知性だろう

私が作る備前焼のシンプルな器であっても、必ず作者が必要だ
作者の創ろうとする思いと、その努力の行動で出来あがってくる
粘土で作られる器が、偶然に出来ると言い張る人は居ないだろう
しかし、私たちの肉体は偶然に出来たという人があまりにも、この地にははびこっている

私も、当然であるが、創造主が誰であるかなどとは分かるわけではない
しかし、現に、今、私たちの存在が有るということは、その存在をイメージして現実化させようとした存在が在ることを否定する根拠にはならない

神であろうと、仏であろうと、天であろうと、サムシンググレートであろうと、何らかの意思を持った存在が原初に在ることは否定できないのだ

「信仰心」とは何かというと、その存在を認め、その意思を感じ取ろうと努力する行為でもあるだろう

ただ、恩恵だけを求め、すがり、安心安寧を求めるようなものではないと思う
結果として、与えられる結果はそれなりに有るだろう
しかし、結果主義にとらわれ、自己の安全や成功、繁栄だけを求めるなら、これだけの手間暇をかけて創造した世界が、どれだけチッポケなものになるだろうか
そんな小さな喜びだけを願って、この宇宙が作られたとは思えない



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