陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2023-08-16

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結果を出すということ

このフラクタルの森では、結果至上主義に対して警鐘を鳴らしていますが
このことに関しては、仕方がない面も有るようです
どんな戦争でも戦場においては勝たなければなりません


勝つためには手段を選ばないということも必要なことかもしれません
勝てば官軍という言葉も有り、勝者が歴史を刻む面も有り
正義が勝者にもてあそばれもします
先の大戦の東京裁判などもそうですし、イラクのフセインの処刑などもそうです
ウソを吹聴し多くの優秀な指導者たちを殺しました
そして、その後、その国民たちは資源を奪われ、労働の価値を奪われ巧妙に支配されています
今も続いているでしょう

目を転じれば、現代社会では明らかな犯罪行為に手を染めて人の積み上げてきた資産を奪おうとする者たちも居ます
彼らにすれば戦争を戦っているような気分かもしれません
お金を手に入れるということは勝つことだと思って居るでしよう

このような戦争とか犯罪まで行かなくても、確かに結果を出さなければ意味が無いように見える為に、犯罪すれすれの曖昧な行為がまかり通っています
政府なども、立法、行政、司法など三権分立しているように見えて、それぞれの都合で結果を出そうとします
その結果がどのような原因となり多くの人々に与えるかなど考えず、神の視点から見ると犯罪になるようなことをしてしまいます
その原因は、やはり、目に見えにくいモノを無視しがちだからです

この三次元世界では、確かに結果は重要です
しかし、結果には原因が有ります
その原因は、こうしたからこうなったというような原因行為ではなく
思いという波動が有って具体化されていることです

この宇宙は、素粒子の粒と波の性質の二つの力が法則として支配しています
粒、粒子として現実化しているけれど
本質は、波、波動としてのエネルギーが有ってのことです

思いという見えない波動が、現実として見える物として実体化しているのでしょうが、この世は修行場として存在していると言われるように
その思いの中身が問われている
その心が問われているようです

戦争で殺し合いをするにしても、そこに有る思いは、確かに勝つことでしょうけれど、その思いの中身は様々有ります
そして、結果も様々でしょうが、その結果に置ける責任も次には関わってきます
思いにおける責任と結果に置ける責任です

結局は、思いから始まり、その思いの波動の世界に戻ります
その思いの波動の世界があの世というものであり、あの世が本来の世界のようです
世界宗教の始祖たちは、このことを理解し悟っていたために、あの世での幸福を重点的に教えていたのでしょう
この世で生きていると、結果に振り回され恐れ苦しみ悩みます

戦争で人を殺すために鉄砲を撃ち込むにしても、仕事で利益を奪い合うにしても、そこにある思いはあの世の波動だけの世界では即実現する事であり、同じ波長を出しているものが寄り集まる世界のようです

思いの波長が寄せ集まりかたまりになると一つの社会ができることは想像できます
当然、地獄的な世界も天国的な世界もできるでしょう

天国は、調和のとれた与えあう世界です
幸福な世界です
地獄は、闘争と破壊の世界であり、奪い合う世界です
不幸な世界のはずです
この世で、見た目には同じようなことをしているように見えても
思いの中身は、皆、違います

この思いという波長を研究する必要が有る
その波長の中身に有る責任の重さを、最近、特に感じています
友人知人、家族、自分自身が地獄という世界で苦しんでいる姿を想像したくはありません

宗教の学びから理解していたつもりでも中途半端だったように思う
量子力学の全ての根源に潜む粒子と波動の性質を考えると
真剣にもっと深く考える必要が有るように思って居ます

その出している波動が、自分自身なのだと思うと
幸福の科学で学んでいる「正しき心の探求」の重要さが身に染みる
そして、幸福が「愛(与える愛)・知(真理知識)・反省(神仏の子としての)・発展(仏の願われる方向へ)」の原理の上に構築されることを意識する必要が有るでしょう



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