陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2023-04-17

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「複眼(両目)で見る」とは

この原理には面白いものが有ります
ほとんどの動物が二つの眼を持っています
なぜでしょうか
一つ目の生き物が有っても良いのに、知っている限り二つ目です


仮に一つ目で生活するととても不便です
見ているものが立体的に見えず距離も測れません

他の動物の構造は知りませんが
人間の眼は、左脳と右脳にそれぞれつながりながら
また、クロスするように反対の脳につながっています
無限大マークのようです

左脳と右脳で情報管理されたものを
おそらく、前頭葉という部署で処理しているのでしょう
それぞれの情報から不足しているものを計算し統合して距離を測ることで立体的な映像を造り上げ、今、自分がどの場所に居るのか計算されているようです

ただ、左右の脳は映像を処理をしているだけでなく様々な思考も管理して処理しているはずです
一般的に左脳は、論理的なモノと右脳は感覚的なモノを処理していると言われます
詳細は知りませんが、これは非常に面白いことを示唆してくれています
確かに人は考えるときに、好き嫌いの感覚と損か得かの感覚の二つで考えています

私が発見して、非常に面白いと思ったことは、この目と脳との関係性です
それと、様々な抽象的な事、例えば情報を正しく捕らえ、正しく人に伝えるための方法として論理的な手法が有りますが、その5W2Hの構造と関連していることです

「複眼(両目)で見る」その時に、同時に第三の視点が働いているということ
同じものを見て二つの映像が有り、それが統合されて三つ目の立体的な映像がそこにはあります

要するに、見るにしても考えるにしても、実際に見えているモノと関連して三つ目の要素が関わっているということです
「複眼(両目)で見る」とは、その言葉に反して「3点で見る」ことのようです

結論を言います
どうやら、私たちは常に三点測量を義務づけられた存在かもしれません
この三点を意識しなければ正しく物事が見れていないことになります

図で説明します
基本的スタート点には次の図が有ります
画像の説明

意見は必ずと言っていいほど対立します
同じ意見というわけにはいかず、イエスとノーのごとく対立します
道が二つに分かれていることが多いのです
そこで、対立をそのまま放置することは出来ないので
その意見の調整が必要になります
個人の中で迷うだけでなく、他者との関係では争いにまで至ることも有るでしょう

画像の説明
その意見の対立の調整のためには客観性が必要ですが
客観性といっても、どうしても自分に都合の良い立場のものを持ってきます
ここからは、その人の世界観が関わってきますが
最低でも、「自」と「他」と「全体」の三つの視点が不可欠です

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そして、それぞれの正当性を比較する必要性がある
「行い」と「思い」と「世界」の三つの思考が深く関わること

論理的に考えるにしても世界観という前提を無視して考えるならば
何も考えていないに等しいこと
この三点が深く関連している

更に、昔からある価値観の中に「真善美」が有りますが
この真偽、善悪、美醜という価値観は何に対して言われているのか考えると
まさに図に書いた通りであり、これを極めるために
他者の存在も自分という存在も、そして創造主、神という存在も在るのではないだろうか
当然、細かな諸課題に真善美という価値観は有るでしょうが、基本はこの通りではないだろうか
この価値観を極める事こそ人間として生きていることの醍醐味ではないだろうか



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