陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

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真理の獲得(生命の起源)

真理の獲得のためには何が必要なのかを考えると
二つの方向から見ることだと最近強く思う
分析するなら、時間的な考察と空間的な考察になるのかもしれない
真理とは、本当のことわりであり、人として生きていくのに不可欠な認識だと思う
この世界を生きていくにあたり、この世界がどのような世界であるのか知らずに生きるということは、あまりにも無謀なことかもしれないのだ


死後の世界が有るかどうか?
自分の人生に与えられている時間はどれだけあるのか?
これは、30過ぎた頃だったか考えたことが有る
その時、考えて一定の結論を出したけれどそれ以上深入りすることは無かった
死ねばどのようになるのか、どのような世界に行くのかまでは考えなかったと思う
ただ、死んだところで全てが終わるとだけは思えなかった
この考えは人生における時間的な考察だったのだろう

もう一つの視点である空間的な考察がある
正直、当時から他者の視点で考える事が苦手だったようだ
行き当たりばったりで他者の反応に対して対応するだけの生き方しかできなかった
ここが私の最大の弱点だったのかとは思う
当然、他者の中でも高度な認識を持たれている神仏や創造主という考え方は出来なかった

霊的な不思議な体験は色々有ったけれど
それは単に人間の持ってる能力の解明されていない部分としか認識していなかった
結局、時間と空間軸で人生の真実を見てこれなかったことで道に迷うことが多かったように思う

最近、最近強く感じることは、「創造主」の視点で考える事
備前焼という陶芸で生計を立てていることも有って、創造の不思議さを感じるのだ
粘土という土ぼこりが集まったものを使い、形を造り、薪で焼き上げる
その作業工程は複雑なように見えて非常に単純である
思いを具体化しているだけの事なのだ
設計図が有り製品が出来て来る
そこに介入できる心の作業としては、思う事だけだ
この単純な真理に眼をふさぎ、全てを判ったように思い込んでいる人間の不遜さを感じる

ダーウインの進化論があるが、まさにそれに当たる
何者かの「思い」の所を無視して進化論が組まれている
「思い」は目に見えないけれど、これが無ければ何も存在することが出来ない
人間が造り出している様々なモノが有るけれど、これらを見て
それが偶然に出来たと言い張る人は居ないだろう
目の前にあるコップひとつをとってみても、様々な過程が有り工程が有り
多くの人と思いと努力によって生み出されている
どれ一つを取ってみても、その背景に思いと行いの二つが有る

まして、自然界を見ても水の中で生きる生き物、空を飛ぶ生き物、微子物やウイルスなどでも偶然に生まれ生命をつなげているわけではない
偶然の重なりだけで出来上がるモノなど存在する訳が無い
ただ、それらが当然の如く身の回りに生きて存在しているために思考停止をさせている
なぜ?なぜ?と考えれば簡単に発見できることなのにだ

私たちの体の持っている機能は医学の発達でさまざまに解明されてきた
その人体に組み込まれているソフトとハードの、その機能の持っている不思議さを考えるなら、それらが偶然に何らの思いも無く出来て来たと言い張ることなど出来ない相談だ
創られているのだ
創られている以上創造主が存在する

どうやら、私たちの魂は神仏の分け御霊で有るということが宗教で言われるけれど
仏の子であり、創造主の子であるならば、フラクタル的に考えても同じフォースを戴いているのだろう
その力を使って、体を健康にも病気にも出来て人生の舵取りをしながら様々な創造を積み重ねているのだろう

その親である創造主なる存在を意識するということは、私たちの持っているフォースの使い道を間違えないことにつながるのではないだろうか
その神仏の思いを忖度することなく、生きている自分たちの都合だけで物事を考えるということは、あらぬ方向に行っても仕方が無いのかもしれない
神の願いに反する創造を繰り返しているなら、それは、体内にがん細胞を自ら産み育てているようなものだろう
そのようなことを繰り返すなら、肉体を亡ぼすようなことになる
ということは、ひいては神の創られたこの世界自体を亡ぼすことにもなる

結局は、純粋なる信仰心が有って成り立っていく世界なのだ
現代人は、自身が神仏と同じような力を有していることに驕り、その神に成り代わろうとしているだけのことなのだろう
その結果が滅びに向かうことなど考える事が出来ないようだ

多くの人は、考える葦であることを捨て去ったのだろうか
本来の信仰心を取り戻し、親の元に帰る必要がある
そのためには、無宗教から離れ有宗教の世界に入り、神の願いに聞き耳を立てるべきだろう
たとえ、悪い宗教が跋扈し悪魔たちが活躍しているような世界であっても
無宗教から離れ宗教の世界に入り考え議論するべきだ

無宗教が跋扈しているために、悪霊、悪魔が入り易くなっていることを知るべきだ

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