陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2022-06-29

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宗教と信仰

宗教と信仰について、人に有るか無いかを問いかけると無宗教と言われる方が多い。
しかし、信仰心は有ると答える方が多い。


確かに宗教という言葉は、手垢に汚れてしまっているせいか、距離を置かれる人が多いようだ。
ただ、信仰という言葉の中にも有る。拝金教・悪魔信仰も有る。
単に先祖を信仰しているという者も居るだろう。
神社に参拝すれば手を合わせて祈ったりもすることで言っている人も居るだろう。

今日、フェイスブックでツイートした【立花聡チャンネル】立花氏の意見は、とても参考になった。

参院選。ずっと自民党に投票してきた自分は、なぜ「変節」したのか?幸福の科学信者ではない私が同党の「宗教背景」をどう捉えているのか?すべてを語る【立花聡チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=Az0FQrBZYQA&t=1s

そこで、幸福の科学という宗教に属している私の「信仰」とは何かを書いてみる。

私は、何を信じているのか?
一言で言ってしまうなら「死後の世界は、有る」ということ。
死後の世界が有り、肉体は無くなっても魂は残り、魂の成長を願って転生輪廻を繰り返しているのが自分自身であると信じている。
これが基本に有る。

そして、それをベースにして考えると、霊的世界は存在し、多くの魂たちも存在し、
その中には、神格をもたれているようなレベルの魂存在もおられるだろうと思う。
神なる存在が在る。これは、必然の帰結だろう。

さらに論理的に考えを進めた結果、創造主なる存在も信じている。
何故なら、私は陶芸で生計を立てている。粘土で作品を作ることでは、私は、創造主だ。
誰かが具体的な思いを投げかけない限り粘土がお茶碗になって焼き固められるということなど起こるわけが無い。

同じく、アミノ酸とかがくっついて細胞を造り生き物へと進化し、その果てに人間が出来て来たと言われるが、粘土と比較しても偶然に自然に出来て来ることなど有り得ない。

さらに信じていることがある。
この宇宙全て、フラクタルだという事。
これは、幸福の科学で信じられているというよりは、あくまでも個人の思い込みである。

フラクタルという言葉は、数学的なことではあるが、文学的に直すと
「部分は全体と相似形を成す」となる。
「人間は、神(創造主)と相似形を成す」と理解している。

宇宙全体が、人間の体のようなものであり
その中の細胞か微生物が、私たち一人一人の可能性がある。
過去の偉大な宗教家たちが、何故、自らの命を顧みることなく、神なる存在を意識し自己犠牲の精神で生ききることが出来たのかと考えると、自他は別ではなく、一体の存在であるということを悟られていた可能性がある。
これは、私たち凡人には理解が及ばないけれど、なんとなく分からないでもない。

それでも、神なる存在も創造主たる存在も推測しにくいけれど、最近、孫が何人かできて子供や孫の事と同時に世界の事を考えると、この連なりが世界を構成していることが理解できる。
神さまにも色んなレベルの霊存在が居るだろうが、親みたいなものだろうと信じている。
もちろん、親であっても人間である。良い親も悪い親も普通の親も居る。
「神」と言える、信仰の対象になるような存在は、親の中でも最高の存在だ。

地球レベルでの神、地球神である以上、全人類の親でもあるだろう。
全人類のひとりひとりの事も感じ、世界の未来を見通し、なんとか導こうとしておられる存在が救世主であり、地球神だと思っている。

その存在と大川隆法という人間が重なって見えるのだ。

私たちの心の中にも神格を備えた部分が有るはずだ。
その心の奥にある最善なる部分で感じることが出来るなら、本物の神なる存在も見えてくるだろうと信じている、



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