陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

宗教と信仰

宗教と信仰

宗教、この言葉を考えるとき複雑な気持ちになる
オウムやイスラム過激派など
宗教とテロとが結びつけられてメディアが伝える

たしかにおかしげな宗教団体もある
宗教という言葉は良きことではないようなすり込みがある

しかし、歴史を見ると宗教が傍流に追いやられたのは最近の事

深く考えてみると宗教には「信仰」が不可欠であり
人間にとっても不可欠な要素である

信仰心が無いとか
無宗教だということは
「私は、人間の姿をしているけれど、
どちらかというと動物に近い存在です」と言っているに等しい見方も有る

昔、日本人が本質は多宗教、多神教なのに
海外で、あなたの宗教はと聞かれて無宗教ですと答えていたために
エコノミックアニマルと揶揄されていた事もあった

動物にも人間にも
その種としての本能が組み込まれている
もちろん動物の中にも崇高なる精神性を宿しているモノもあるだろうが
動物と人間の違いはどこかというと
高邁な精神性

信仰心が無いということは、自らを主となしていること
尊崇する対象を持たず
理想像を描くことも出来ず
単に目先の栄達や繁栄発展のみを見ているとするなら動物としての生き方でしかない

しかし、宗教を信じ信仰心を持っている者であっても
自分たちの欲得を実現せんとして小さな神を主となし
自分たちの道具にまで引き下ろしている人達も居る
宗教の信用を失わせるような者も多いことは事実だろう

ただ、誰であれそれなりの人生観を持ち
世界観を持ち、宗教観を持っているという見方も有る

「無宗教」であっても一つの世界観であり立派な宗教の一つだ
死後の世界も無く、
魂も無く
神仏の存在も無い
無宗教の代表選手たちにマルクス主義者たちがいる
科学万能教という人達もいる

現実はいろんな世界観も有るだろう
この宇宙は、多重構造になっているという意見も有るが
しかし、我々が生きている世界の真実は一つである

「宗教選択の時代」という言葉もある
自らが持っている宗教(観)がどのようなものであるのか考える必要がある

間違った世界観(宗教観)で人生や社会を造り上げたとすれば
おぞましい世界が出来ていくことだろう

政治も単なる利害で結びつくような野合でなく
共通した世界観を背景にまとまるべきだろう

政教分離という言葉もあるが
政治家たちが精神性も無く国家の行く末を決めるようなら
それこそ、利害だけで動く動物的な世界となるだろう

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