陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2022-04-13

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世界を二分する力

様々な事件が起きる
様々な対立がある
表面的には、利害の対立に見えるが
フラクタルの森的に陰陽で見るならば
根本にあるのは、世界観

世界観と言っても、真理だ

この世界に流れている「真理」に沿っている者と、そうでない者の対立


真理に近しい人達と真理から遠い人達との対立
言い換えるなら、神の眼から見て
より正しき者とそうでない者との対立だ

私は、昔から、「真理」という言葉に惹かれていた
しかし、このところ、その真理という言葉をあまり使わなくなっていた
その理由は、おそらくオウム(真理教)のせいだろうと思う

考えてみれば、彼らのは偽物の真理であり
自分たちの都合の良いように言いくるめていた
ただ、世間の常識がオウムとどれだけの違いが有ったのだろうか

あの時も、東大の宗教学の教授が、オウムの犯罪が表面化するまでは彼らを擁護するような発言をしていた
有名な言論人にも同じような人たちがいた
正邪の判定が出来なかったのだ
結局は、真理から遠く離れていただけの事
おそらく、深く考える事すら出来なかったのだろう

「真理」とは何かというと「正しい世界観」でもあるだろう

次の図の、「世界」をどう見るか
その下の図の、どちらを本当の世界だと見るか

論理的考察

死後の世界

私の眼から見て
アメリカの大統領選挙、コロナ禍の問題、ワクチンの問題、ウクライナ紛争
エネルギー問題、地球温暖化問題、経済問題、様々あるが
これらの判断が、大手メディアや常識あると思われている人達の常識と違っている場合が多い

とても不思議であり、このまま行くならば恐ろしい結果になるだろうと思うのだ
その原因は、ハッキリ言うならば
真理を知らない人達、世界を見間違いしている人達が造り出していることだと思う

私自身の考えの方が正しいと見るのは、対立する意見を持っている人でも同じことだけれど、今まで、その人達との違いがどこに有るのかと探してきた

その結果見えてきたのは、このフラクタルの森で常に言っている両目で見ようとしないことに在る
複眼で見られず、物事を立体的に見れないからだ
片眼で見ていると、物事は平面的にしか見れず唯物論になり易い

結局、真理に近い人達と、唯物論、無神論に近い人達の違いだろう

霊的世界も無く、神なる存在も無いだろうぐらいに思っていれば
簡単にお金の力に組み伏せられてしまう

今、日本の政界には親中派が跋扈している
真理から遠くにいる人たちは、とにかく、アメとかムチに弱い

真理と共に在った人はと言えば、イエス・キリストと吉田松陰を思い出す
イエスに限らず、世界宗教となり得た宗教家たちは、真理を悟っていた
イエスは、何故、自らの命を差し出したのか
松陰は、何故、刑場の露と消えるような言動をしたのか

それは、真理を悟っていたからだと思う
今、再誕の仏陀であり、救世主であるエルカンターレからも学んでいるが
「自他は、別個にあらず、一体なり、共に仏子の兄弟なり」というように
ある意味、全てが、神の体の一部であり、一心同体であるという事
神の子としての尊厳だけでなく
この世が仮の世であり、魂の修行場であることを悟られ、
神仏の願いを心の底から理解されていたために
目先の利害に左右されることなく、真理に沿った正しさを求めておられたからだ

今、死後の世界の有無など考える人は少ないようです
質問すると、あの世は無いだろうと思っている人が多数を占めています
白紙に戻して考えれば見えてくるのに
そのような狭く小さな世界観では、色んな宣伝に洗脳されやすくなる

大切なことは目に見えないと言われるように
見えにくいものを見ようとする努力だけは忘れないで欲しいものだ

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