陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2020-12-20

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宗教に違和感を感じる方へ

私も昔は宗教は嫌いでした
深く考える事なく印象のみでそう思っていた


創価学会とかの悪い印象とか有ったのもそうだが
結局は、深く考えていなかったのが原因だ

このフラクタルの森でしつこく書いているように
少し深く考えるだけで宗教の重要性は見えてくる

宗教を遠ざける考えと
宗教に踏み込んでいく考えと
何がどう違うかというと
世界観の中での宗教観であるし
その人の人生観に深く関わっていく事である

いつも使う図のように死んだら終わりか、それとも
死後の世界があり、霊的世界の生活が有るかどうかが
この選択で人生観に大きな影響を及ぼす事になる

霊的世界が無いのなら
神仏なる存在も無い事になり
宗教などもってのほかである
ただの気休めにしかならない

宗教組織が大きくなるという事は
政権を持っている勢力にとっての大きな反対勢力となり
歴史的に見ても政権転覆の脅威ともなる 

良くも悪くも弾圧しなければならない存在になり得るのだ

二択で言えば、宗教を選択するかしないのか
神なる存在を認めるのか認めないのか
この二択が迫られているということを
本当は考えなければならない

その選択の結果、どうなるのか
事実を集め、その延長線上には何が待っているのかを考えなければ
自分にとっても社会にとっても無責任である

宗教や神仏を認めない社会は、今の中国共産党が支配する中国や北朝鮮である
その中国や北朝鮮を理想として見ることができるかどうかだ

アメリカでもこの選択が政治の世界に表面化している
共和党が全て信仰深い人たちでは無いようだが
民主党との対立は、信仰のある側とない側の対決だ
民主党の一部に中国共産党と同じ世界観の人達が浸透している

神を意識して考える側と無宗教で無神論の人たちとの戦いだ

この選択でどちらを選ぶかだ
日本でも正月には神社やお寺にお参りをするけれど
ただ、習慣の奴隷となり単なる気休めでお参りしているだけだ

結局は、客観的な見方が出来るかどうかに関わってくる

無宗教、無神論を選ぶ人たちは、どうしても
自分たちの正しさを主体として考える
この考え方は一神教的な強さが有るので強い面が有る
しかし、独善的となり得る

もう少し、まともな人達は、他者の言う正しさにも自分を置いて考える
ただ、他者の意見を考えすぎると優柔不断になり
どっちつかずの判断にもなりがちだ

神仏なる存在を認める人達は、
一神教的な人達は訓詁学に陥り強い反面、自己中心的な考えに流れてしまうけれど
多神教的な視点をもったり
そのなかでも至高神なる存在を意識できるなら
そのような人達は、自分たちの利益だけでなく全体の利益を考えること事が出来る

結局、信仰心が無い魂は、
どちらかというと動物性から抜け出ていない状態だという事だ
深く考える事が出来ず
今、ここに居る、自分達の視点でしか考えられない人達だ

こういう人達は、アメとムチで簡単に暗示をかけられて操縦出来る
あたかも、家畜の如きに
メディアの操作で自由にコントロールができるのだ

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