陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2018-08-07

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意見の違いの根本原因

政治の世界でも色んな意見に違いが有り対立する構造が有る
同じテーマであっても対立した意見が出ると言うことはどういう事なのか

次の図で下へ下へと掘り進んで観ると
その根本原因が見えてくる

画像の説明

この図で考えると非常に簡単に見えてくるのだが
左脳的にだけ優秀な高学歴の人達は
リンゴの木でたとえるならば目に見えている表面的なところだけを観ている傾向が有る
余り深く考えるという事が馴染んでいないようだ

知識や頭の回転の良さが逆にマイナスに作用している面が有る
小さい頃から評価も伴い自分自身に信頼を置いているのだろう
自らの認識に自信を持っているのだろう

私のように頭の悪い者にとってなかなか自信がもてないと言う側面も有り
どうしても「何故」を繰り返し、本当に理解できるまで納得できないのだ

本来、人の認識には段階が有る
現実・事実・真実というように3段階ぐらい有るようだ

学ぶことでも、
事実であるかどうかにかかわらず現実には暗示状態で受け入れて認識している
自己催眠状態での認識が、繰り返しの検証や実体験で次第に事実と認識され
そのことの背景まで認識が進むとそれが真実であるという認識に変わってくる
その認識を人時所を変えて観たとしても結論が見えてくるところが有る

この3段階を越えることで「真理」に至ることが出来るようだ

このような認識の深化が有る面と同時に
疑問視でも有るのだろうが、否定可能な視点も必要のようだ
以前にも書き込んだが
白紙の上に意見の違いの双方を載せて考える事

この縦軸と横軸の検証が不可欠だと思う

それと同時にこの図の中で掘り下げて考えることだ

「なぜ」動機、思い、設計図、種、目的(目標ではない)などを意味する場所までも掘り下げることが出来ていない現状が数多く有る

もっと掘り下げられていないのがその下である
「何を」テーマ、課題の所はよしとしても
その下の「誰が」の所である
ここは、人間と言うよりも「主体」と翻訳した方が良いのかもしれない

左脳的にだけ優秀な方は、この主体の所に「自分」を置いてしまうようなのだ
ここに入るべき主体は様々有る
「神」から小さな「個人」まで、無限の存在が入る可能性が有る

主体を替えて考えることが出来ない人が多いようだ
そして、それら全てを含んでいる「世界」

この世界の見方でその上のモノが変わってくる
そのことを知らない人が多いようだ

全ての根本原因は、ここに在る

死んで終わりならばそれなりの生き方が有り考え方が生まれる
死後の世界が有り、連続する部分が有るならば、それなりの考え方が有り生き方が有る

この世界を観るのにも

現実・・事実・・真実を見つめ
真理を探さなければ、本当の人生を生きていることにはならないだろう

真理の眼から観るとそのような人達は
動物のように見えているのかもしれない
家畜の一種のように見えているのかもしれない

頭脳明晰で高級官僚や、政治家、経済学者、メディア関係者になっているような人達に多いように感じるのだ



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