陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2017-10-24

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「信仰心」は有りますかと問われて、どう答えますか

・・・YESと答えられた方は、その対象は?中身は?とさらに問われたらどう答えられますか。
また、NOと答えられた方は、何を信じて生きておられるのか、具体的に教えてください。・・・

これはあるサイトで私が投げかけた質問です


色んな答えが返ってきます
このサイトの意見交換に参加している方は、唯物論の方が多く
私を邪教の信者という人もいます

一つ一つの意見に返答する形で返していますが、やはり一つの傾向性が有ります

まったく信仰心と言えるものはお持ちでない方と
なにがしかの「信仰心」はお持ちだが「宗教」ということに関すると抵抗感を持たれている方

私も後者の意見は理解できます

私も「宗教」という言葉に正直言って「まだ」抵抗感があり、これは、現代のお寺でもあの世も信じていない坊さんがお経を上げて商売したり、邪教が跋扈したり宗教の中にイヤな面が目に付くからです。
よい子悪い子普通の子とあるように宗教も同じで、
キリスト教でも仏教でも同じで,
教会にも、神社にも、お寺にも、それぞれに
良い・悪い・普通と分けることが出来るでしょう

良い無宗教、悪い無宗教、普通の無宗教とあるでしょう

これは何にでもあることで、この峻別には難しいものが有りますが
タイトルだけでわけられるものではありません
その善悪、正邪を見極められるかどうかが
神仏から私たちに求められている事なのだと思っています

真・善・美という見方も有りますが

逆から言えば、偽・悪・醜でしょうが
これを見極めるためには何が大切なのか考えると

一つ言えるのは客観的な見方が出来るかどうかではないだろうか

意見や評価などが分かれる時
どうしても、今、ここにいる、自分の立場で考えてしまいます
意見の対立する相手もそうでしょう
結局は客観的に観るために善意の第三者の意見が必要になりますが
その第三者もどうしても自分にとって都合のいい人を持ってこようとします

利害を超え、立場を変え、時間を加えて観る必要が有るのですが
究極的な客観視が出来るためには、やはり、神仏の視点を想定しなければ難しいと思う

利害の対立し、意見の対立する者、間違った者も良き者も、共々に
全人類を我が子と見られているような存在を想定してみる必要がある

神仏の存在の証明は不可能だが
仮に、仮にもだが、
そんなものの存在が無かったとしても
画像の説明
より知性的、より理性的であるためには
この3点から観るということが不可欠だと思う
よって、信仰心が無いということは、「深く考える」ことが出来ない
自分の立場でしか物事を考えられないと言っているに等しい

動物と人間を分けるのは、信仰心が在るかどうかだという意見を聞いたことがあるが
まさしく、その通りなのだと思う



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