陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2016-11-15

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創造の原点

私は、私達のこの体(ハード)や魂(ソフト)が偶然に出来ているものではなく
神仏の願いを込められて創造されたものだということを信じている
信じているというよりも確信している
確認していると言って良い

その理由は
土から器を造っている者として否定のしようが無いからだ

造りながら思うのが、
目の前に形を成していくその姿を見て
どうやったらそのものが存在できるのかを考えてみると
単純に見ると思い(陰)と行い(陽)の二つの要素で出来ている事を確認する
イメージと具体化である
設計図と製作工程がある

作り手の思いか、造って欲しいと願われる、どちらかの思い無く存在することは不可能だ
そして、造られた以上、その存在には何らかの願いが込められている

土から造られた器以外でも、私達の身の回りに有る便利な物達を見ても
間違いなく、同じように、造られている事が理解できる
思いの投影無く偶然に出来てきたものなど無い

理由は、単純にこれだけのもの

それなのに、多くの人たちは魂の部分を見ることも無く
生命体であるならばダーウィンの言うように偶然に進化してきたと信じている

まことに不思議なことだ

粘土で造られた器と単細胞であるゾウリムシと比較してもその機能は比較にならない
単細胞の生命体一つ人類は創り出すことは出来ていない
創り出す行程すらイメージ出来ないのだ
そのイメージ出来ない行程が何億年も時間が有れば偶然につながり生命体の誕生が成されると思いこんでいる
土から造られる器はその過程をイメージ出来るが
生命体が生まれ、どうやれば、生殖を繰り返し増殖できるようになるのかその過程を想像することは出来ない
想像すら出来ないことが、自然界で偶然に起きるということなど有り得ないことだ
そこには秘密が隠されている
分からないのに分かったように認識している事の愚かさを理解するべきなのだろう
ソクラテスの「無知の知」、その素朴さ素直さに学ぶべきなのだろう



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