陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

比喩で見えてくるモノ

比喩で見えてくるモノ

この宇宙の存在も不思議なら
自分自身が現に今ここに生きて考えている
それも不思議

その存在の不思議を考えると
結局は「無知の知」という悟りに行き着くしかない
生きているから生きるしかないと

しかし、存在ということを考え、
比喩で物事を見ていくとシンプルな姿が見えてくる

粘土で作られた器であっても
誰かの思いが背景に在って存在している
何らかの願いが込められてもいる

人間も偶然に出来たものではない
天(仏神)の思いが有り存在している

器に込められた願いと人間に込められた願い、
形は違うだろうが「お役に立つ」ようにという意味ではおそらく同じだろう

車でも椅子でも器でも、家でもそのものなりの願いが込められ
現に見える形で存在している。
その願いと期待に答えることが出来ない物は
この社会から自然に淘汰され消え去ってしまう現実がある

私たち生命もいろんな神々の願いが込められ存在しているが
この大宇宙でさえ、おそらくそうなのだろう

唯一絶対の神がいて全てが創られているのではなく、
比喩で見れば人間(体)と同じで、
主なる大いなる自己(神)が有るだけなのかもしれない

この全宇宙、全人類 、全存在
全てが神の体の一部であるのかもしれない
全てが同根、同体であるのかもしれない

それにしても
不思議としか言いようが無いが
この不思議を感じることが出来ない人たちが
唯物論、無神論となり
左翼思想に犯されてもいるのだろう

変に頭が良くて
無知を確認したくないという不遜な精神が背景には有るのだろう

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