陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2024-03-23

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すべては波動

素粒子の世界、量子の世界、最先端の科学で言われているのは、細かなことは理解できないが、その素粒子の持っている性質に粒と波の性質があるということ。ということは、フラクタルとして、自己相似形として、光、その素粒子が持っている性質が、私たちを取り巻いている世界を全てを支配しているということが考えられる。
どうやら、この波と粒子の性質が、全ての全てに在り、私たちはその世界の中で生きているということのようだ。


粒子というのは理解し易いけれど、波は難しい。
これは、海岸などで見ることのできる波で考えると何となく理解できる。あの波が起きている原因には様々なモノが在る。風であったり潮流であったり、海の上を移動する船であったり、月の引力であったり、様々な力が関わっている。

素粒子でも通常は波として存在しているけれど、観測されると粒として認識されるという。考えると波、波動が目に見えている姿で認識されてるのが粒として感じられ目に見える姿で認識されているのかもしれない。
要するにその波の中には様々な情報や力が含まれているということは想像できる。波は振動であり、エネルギーであり、情報である。
単純な振幅を繰り返す波の中にも複雑な情報が含まれている。

レコード盤に刻まれている波であっても、音を刻み込んでいるだけの溝であるけれど、そこに刻み込まれている情報や力は誰もが感じるように単純ではない。
結局、目に見える、もしくは、聞こえる情報であっても単純なモノではないということ。
人も物質も目に見えているものであるが、そこに在る情報は単純ではない。人の思いも単純ではない。すべては、波の性質としての要素を含んでいる。すべてが、エネルギーを含んでいて、そのエネルギーが目に見える姿で存在している。これはE=mc²で表現されているようなものだろう。
エネルギー(波)と物質(粒子)とは、同じだということだが、これも同じことだろう。

波とは何か、波動とは何か、万象万物に波動は有るということ。どのような物質も放射線を発しているという。
波動の一面の表現として粒として見えているだけかもしれない。

人間の存在もそうであり、私たちの中にもは波動があり、一部が目に見える形で認識されているにすぎない。死ぬということは粒の形での表現が出来なくなり、波としての存在でしかありえないということになるのだろう。
波とは幽霊みたいものでもあり、通常は目に見えて認識することはできなくなる。電波のように壁を通り抜けたり一瞬で移動することも可能であり、世界中を取り巻いている情報にアクセスすることも可能なようだ。
アカシックレコードとか言われているようだが、膨大な情報の波の中を波乗りするようなものかもしれない。

今、私のテーマは、波とは何だろうかということ。
波の本質を探ることが、真理を探す旅の中でとても重要なことだと思って居る。



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