陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2024-03-16

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寛容ということ

色んな価値観があり、人はそれぞれにこだわりを持っている。
不寛容とは、ある種のこだわりから来るもので、その価値観に合致しないことを許せないということであり、心の広さ大きさも関わってくる。


こだわりを持つことは大切ではあるが、しかし、こだわりが強すぎると軋轢を生む場合もある。先日、ある人から「宗教は嫌いだ」と言われたことがある。元韓国籍で今日本国籍を持っている人であり、過去にも同じことを言われた事がある。好き嫌いはそれぞれにあるくらいに感じていた。
彼の価値観は、何かと考えるとお金とかに強いこだわりを持っている。
以前、大阪で拝みやさんの所に連れていかれたことも有るので霊的なことを嫌っているわけでは無いだろう。現世利益を願っていることは、家にも仏壇があり、いつも手を合わせていることも知っていた。
しかし、彼は、無宗教だということ。何らかの価値観を受け入れてはいるのだろうが、一般的な宗教、しかも新興宗教を嫌っている。

私が幸福の科学の信者であることを否定せず、聞かれればハッキリと説明することに、異常な反応を示すことにいつも驚かされる。私は、自分の思想、その価値観を押し付けるわけでは無いけれど、彼は、結局自分の思想、価値観を押し付けているということになる。

確かに、私も近所で統一教会の信者の方が居て、その価値観について話そうとするのだが、質問したいだけなのに防衛線を強く張られてしまう。間違っていると思っても強くそのことをいうわけではないのだが、その価値観を知りたいだけなのに話がうまくかみ合わない。

統一教会の彼と無宗教とする彼と同じなのだろう。
寛容さが無いために反発してしまう事がある。私はと言えば、魂は全て同根であるということを信じている為に、完全に価値観の違っている人に対しても拒否することは無い。全て神仏の子であり、根っこではつながり、転生輪廻しながら修業している魂の兄弟たちだと思って居る為に、よっぽどのことが無い限り、相手を拒否することは無い。
世界宗教も全て同根であり、時代時代で現れ方が違い、それぞれのこだわりがただぶつかり合っているだけだと信じている。

宗教には、無宗教も含まれ、一神教から多神教まで様々に有る。どのような宗教も創造主から分かれてきたものであり、それらの上位には、それぞれの神を超えた崇高な偉大なる思いが存在しているという至高神の考え方を受け入れている。

同じ宗教であれ、たとえ、同じ幸福の科学の信者でも、細かくはその価値観に違いが出てくる。行動形態の違いなどでも意見が分かれてくるけれど、結局は寛容さということが大切なのだと思う。
寛容さは、器の大きさであり、その器の柔軟さである。
器の大きさ小ささは何によって起きるのだろうか。

人間は、基本は、自己中なのだろうが、その自己中の中身、要するに質と量に関わってくるのかもしれない。
世界観に深く関わってくるのだろう。

世界・思い・行い



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