陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2024-03-14

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窯焚き完了

今回の窯焚きまでの過程は、諸般の事情でとても時間がかかり難産でした
数日後に窯を開けますがどのような結果になっているのか分かりません。
今までも旨く行かないことは多々ありましたが、それでも、結果は何とかなるものです。


確かに温度が高すぎたり足らなかったりしている場所があり、商品にならないものもできたりしましたが、それでも、全体を見れば合格でした。
どんな時にもくさらずに前向きで開き直って薪をくべていくことで何とかなって行きます。あきらめずに前に進むことの大切さを感じさせてくれます。どんな時もマイナスの言葉だけでなく、マイナスの思いを発することもなければ、前進さえしていれば道は開けるようです。

以前から波動とか、ことだまの力に興味が有りました。
ネットで改めて調べてみると色んな投稿があります。そこには玉石混交であり、宗教的学びから心の法則を学んでいる者としては首をかしげたくなるモノも多数ありました。
仏教には一念三千と言う言葉も有ります。どういうことかというと、思いというモノは三千世界が有ると言われるように、必ずその世界のどこかに通じているということです。例えば、単純に良き言葉を使えばよいということではなく、「愛」という言葉でもそれが一つの世界だけに通じているのではなく三千世界のどこに通じているのか分からないということ。
愛していると言っても「与える愛」から「奪う愛」まで、天国的な意味合いもあれば地獄的な意味合いもある。愛していると言いながら執着の愛となり相手の命を奪ったり、対象の運命を狂わせるようなものも有る。
結局は、その言葉の中身、その思いの中身が問われているのです。
良き言葉だけを使って居れば良き運命を引き寄せられるというような単純なモノではない。正しき心の探求ということも学んでいますが、まさに、神仏から見て正しいのかそうではないのかという課題があります。

私自身の思いの中にどれだけのものがあるのか、マイナスの言葉を出していなくてもその思いの中はどうだったのか、逆境の中にあっても神仏から見た場合、どうであったのかが勝負です。
私の思いの中にある波動がどのようなモノであったのかが試されるでしょう。それは、結果が証明もしてくれるでしょうが、たとえどのようなことが有っても正しい心の道を歩もうとしていれば、時々離れるようなことが有っても神仏が指し示してくれている道を縫うようにして辿っているものと信じています。

波動ということは、言霊に限らず全ての全てにあるものでしょう。
光に波と粒の性質が有るように、全ては波として存在しながら粒として目に見える姿を取っています。目に見えやすい面だけに振り回されることなく波の本質まで感じられれば全てが良い方向に向かっていくでしょう。

色んなことがあり、いろんな言葉や考えが交錯して世界を二分していく姿が見受けられますが、粒としての姿ではなく、波としての本質を見ることが世界のトレンドになって行くことを願っています。目に見えにくいモノを見ることの大切さを感じます。

どうやら、この宇宙は「光」が支配している世界のようです。
光の性質に粒と波の性質があり、通常は波として存在しながら、観測者が居ると粒としての性質を現わすという、わけの分からない性質が有ると言われます。本質は、波であり、エネルギーであり、どうやら、心とも言えるのでしょう。

全宇宙を支配している光の中に創造主、神仏の心があり、その光の思いとどのように同調しているのか、どのように反発しているのか、私たちが発する波動がどうかかわってくるのか、問われているように思う。
この光の波動の中に含まれている情報が、おそらく未来の科学をけん引していくのでしょう。宗教的アクセスも有れば物理的アクセスもある。
仏教で表現されるように,言葉で表現し切れるモノではないだろうが、悟りという道は遥かに遠いけれど、一つ一つ階梯を登っていける事には間違いが無いでしょう。
それを信じてあらゆる学びを続けるしかない。



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