陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2024-02-23

Top / FrontPage / 2024-02-23

ハルマゲドン

この言葉の意味を詳しくは知らないが、
ただ、聖書に予言されている善と悪との最終戦争の事のようです
善と悪は、人時所の違いによっても起きる
神から見たら善でも悪魔から見れば悪になります
悪魔から見ての善は、神から見ると悪です
ハッキリと価値評価は分かれるでしょう


例えばパレスチナとイスラエルの闘いでも、切り取る場所で違う。
ハマスの攻撃で多数の犠牲が出たことを起点にすればイスラエルにも言い分はあるが、一般市民と思われる人々が万単位で殺されている現状や、そもそもイスラエルが建国された時点で見れば、パレスチナ民族にとっては全くの悪です。しかし、イスラエルも聖書に残っている一節を取りカナンの地を与えると書かれていることを根拠にして今も居座り続けている。

ウクライナとロシアの紛争でもそうです。
2022年のロシアのウクライナ侵攻を起点と見れば、ロシアの領土拡張欲が有ってのことのようにも見えます。
しかし、2014年から始まっているウクライナ東部で起こっている親ロシアの人たちに対する殺戮から見れば、その紛争を終わらせるためのものでしかないでしょう。

結局は、原因の前にある原因を見なければ、善悪は逆転します。
目に見えにくい部分を見ようとしなければ、その評価は違ってきます。
見えにくいところは、原因と結果の原因の所と、他者と自己の他者の都合の所で、結果主義、自己中心主義になっていると、なんでも自分たちの正しさが善であり、他者の正しさは悪として処理されてしまうでしょう。

そのように、利己主義になり、他者の正しさも見なければ、原因を無視して結果ばかりで見ようとすれば、自分の正しさを基にして、自分が得られる結果ばかりを考えるということになります。

そのようになってしまう原因は、客観視が出来ないということに尽きるでしょう。なぜ、客観視が出来なくなるというと、次の図に有るように、自と他を同時に見ている存在が無いことに原因がある。
たとえ、信仰が有るという人たちであっても、その神を観るときにも偏りが有ります。排他的な神様を見ているのであり、神格を持っていないような神、要するに、悪魔であっても自分たちに利益を与えてくれる神を持ってくるでしょう。

過去の歴史の中で、キリスト教同士の戦いも有りましたが、これなども、信仰している対象が排他的な、神とも言えないような存在を中心に持ってきている為でしょう。双方に、そのような悪魔のような存在が入り相争っていたと思われる。
結局は、多くの人々が悪魔信仰に陥りやすいということ。
今だけ、ここだけ、自分だけ、お金だけの価値評価で動かされるなら、簡単に悪魔のささやきに騙されるでしょう。

ほとんどの人に、この悪魔のささやきは働いている。

自と他、双方を我が子と見ているような存在、その抽象的な神なる存在、その真なる存在をイメージできなければ、もっと身近な存在を持ってくれば良いと思うのです。
全人類を我が子や孫と認識できるようなジジババを持ってくるのです。
要するに、神とは、最高最善最大最強のジジババを超えている存在です。
自分だけを可愛がってくれるジジババではありません。
こんな簡単な存在をイメージするだけで、善悪の価値観はハッキリしてくるでしょう。

画像の説明



コメント


認証コード(2442)

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

備前焼