陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2023-07-26

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障害者施設

以前、「生きている価値はない」として大勢の入所者を殺した事件が有った


この事件で考えさせられたのは、霊的人生観の問題だった

唯物論、無神論から考えれば、障害者の存在に対して疑問を持つことは理解できる
しかし、転生輪廻が有り因果関係の元に今世の人生がある

少なくとも、当事者には世話をする人と世話を必要としている人の二人の世界が有る
見えている障害にも霊的に理由があり、本来、魂は健全でも肉体機能が旨く働いていない場合もあるという
その世話をする側の人も、そのような立場に今いる理由も有るようだ

そもそも、その関係も偶然ではなく、神様の計画というか認知の元に起きている関係のようだ
お互いに、それぞれの立場で人生修業をやっている

私は、運命にも二種類あると思っている
因果関係の元に結果としてそのような立ち位置に居る場合と
自分で人生計画をたてて、そのような人生を送っている場合
病気でも同じように見ている
原因結果の流れの中で病気になっている場合と
その病気の中で何を悟ることが出来るか、予定してなってる場合だ

ただ、どちらにせよ、そうなっている原因は分からない
その場に居るということだけは決まっている
どう対処することが出来るか、それを神様は見ている

以前、総裁から学んだことがある
障害にも色々あるが、単に障害者の世話をしてあげていると思っていても
その障碍者に魂の教育を受けている場合もあるという
不自由な肉体に宿り菩薩業として生きている場合があるという
魂のレベルは、その世話を必要としている人の方が進んでいて
世話をする人の教材として有る場合だ

なにが背景にあってそのような人生を送っているのか分からないけれど
ただ、予測できることは、神様は、どのような風にその状態からより素晴らしい関係を創り出せるかということが問われているのだろう

あの障害者施設で起こったことは、神の眼から見れば最悪なことだったろう
あの犯人は、死刑で終わりではないし、その傾向性を魂が持ってしまったことに対する責任がある
その心の波動は、同じ波動を持っている世界に通じて引き寄せられる
その波動の世界は地獄であることに異論を持つ人は居ないだろう



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