FrontPage/2023-02-06
フラクタルでの考え方
玄明陰陽学での考え方ということですが、要点は何かを一言で言うならばどうなるだろうか
「両目(複眼)で見る」
両目で見るということを図にしようとすると
今まで様々な図が生まれてきた
右目が自己にあたり、左目が他者にあたる
要するに、自分の考えのみが正しいと信じ込むことの愚かさを知り
他者の考え方も実際にイメージしてみること
自と他の調整だけでなく、それを見られている神仏からの考えもイメージすることが非常に大切だということ
これらは、左目と右目に分かれている空間軸での見方と
額に有るといわれる第三の眼での見方も含む
これは、離れていて見えにくいモノ
これらの図とも関連するが、もう一つは時間軸での見方で重なっていて見えにくいモノ
この図での思い(原因)の所が左目に当たり
行い(結果)の所が右目に当たる
ここでも両目で見なければならないのに、ついつい、思いか結果、片方ばかりを強く見てその意見の正当性を主張しようとする
これは個人の心の中でも、立場を変えた他者との間にも起こる
資本主義を主張しすぎる人は、陽(行い・結果)だけに
社会主義、共産主義を主張する人は、陰(思い・原因)に
この偏った見方をする原因は、第三の眼が開けてないと思われる
この図では、その第三の眼に当たる部分が「世界」だろう
この世界の観方を間違えたり無視していると、その為に片目になる
そして、混ざっていて見えにくい視点だ
人は左脳的判断と右脳的判断で物事を決める
この損か得か、好きか嫌いかの判断は、まじりあっていて難しい
要するに、動体視力を養ったり、速読術の訓練に使われるという方法が有るが
この動作と同じことをする必要があるということ
左右に視点を置くのと、上下に視点を置くのと
前後に視点を置いて交互に視点を移しながら見る訓練
変な図ではあるが、図にするとこのようになるかもしれません
要するに、全てを動員して、あらゆる視点から考えない限り
いろんな課題に対する回答は得られないのではないだろうか
個人も企業も国家もこのピラミッドの図で表現可能だということ
左右、上下、遠近の両目で見ることを繰り返しながら
ピラミッドを描いていくならば、このピラミッドの大きさが小さく縮小していくか、それとも、立派なピラミッドを描き大きく成長しているのかイメージすることが出来る
何となく旨くまとめることが出来たように思えるが、おそらく自己満足の域を出ていないだろう
今、世界中のあらゆるものが縮小しているように感じる
国家レベルで見れば、あらゆる場面で片目で見てのことが多すぎる
個人中心主義、結果至上主義
見方を変えると、動物の本能だけの世界を呈しているようだ
自然界の動物の方が、まだ両目で見ているように感じてしまう
両目で見ることをしなければ、神仏が見られているような視界は開けてこないようだ
動物には信仰心は無いだろうが、それでも心素直に本能に従っているだけでも、もともと創造主によって創られている本能ではある
大きく道を踏み外すことは無いだろう
しかし、人間には本能の他に知性、理性が与えられ本能の進化が求められているようだ
要するに、悟性と感性、要するに「世界観」と「思い(愛)」の進化が求められているように思う
その為に旧約聖書にも有るが、智慧の実を食べたために地獄が生まれたという記述もあるようだ
要点は、愛に対する悟りだろう
愛には、本来の愛である「与える愛」がある
しかし、愛にも良い子、悪い子、普通の子がある
今、「奪う愛」という悪い愛がはびこり、表面だけを飾り悪循環を繰り返している
この図での思い(なぜ、動機)の中身が問題であり
ここに神仏の眼から見た価値あるものが産み出されるなら成長し逆なら衰退する
ただ、それだけのことと言い切っても良いのだろう
その価値あるものとは、基本は商品やサービスだろう
思想やシステム、様々なモノが有るだろうが、どちらにせよ
「信仰心」が不可欠だということ
国家づくりには「自由・民主・信仰」という基本を無視して成り立つことは無いということ
この日本ですらこのタイトルは添わなくなっている
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