陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2022-05-09

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経済(価値)の本質とは?

何だろう
目の前にお金という不思議なモノが有る為に目が惑わされる
お金そのものが経済であるかのように錯覚する

お金は、欲しいものが、すぐにそれと交換してもらえるために大きな力を持っている
そのように皆が思い込んでいる


この思い込みと言うモノは始末に悪いというか、とても面白い
逆に、信用が置けないと思い込まれるなら
それまで、いろんなものと交換できていたものができなくなる
その価値有ると思われていたものが
ただの紙切れや
ただの金属板になってしまう

ここで考えるべきは、視点を少しずらしてみることだと思う
このお金で交換してもらえるもの
その価値有るモノを、お金を通さずに見てみることだ
直接、その交換できるモノの価値で見るという事

この価値観は、その対象により、それぞれの思い込みによって違う
その多様な要素を無視して、共通の価値観でまとめようとするのが「お金」である
これには良い面も有るが、曖昧ゆえに問題も有る

本当に価値有るモノをそう見れず
逆の価値を含んでいるモノをあたかも価値有るモノのように見てしまうことだ
この価値の混沌さが世界を狂わせている面がある
その現実は直視する必要は有る

その難しさが、実際のお金を見る時にも現れる
「お金」を「数字」としてだけ考えたり
その「お金」を「物」としてだけ見ていると問題が起きるようだ

このお金に関して政府の財政出動と緊縮財政の問題が有る
MMT論者のように積極財政を提唱する者と
財務省のように財政健全化を提唱する者たちに共通する間違いが、この見方の中にも有るようなのだ
その本質である「信用」を背景に持っている「価値」として見ない為に起きているようだ

MMT論者は、緊縮財政派の人達をお金を物として見ているからだとして非難する
現実のお金は、誰かが銀行で借金した時に数字として生まれてくる
これを信用創造と言って、積極財政を推進する根拠としているようだ

確かに政府がお金を創り出し、市場に出すことでお金が循環し国民の所得になっていく
政府が国債発行という形で借金して、何らかの仕事(物やサービスの提供)を企業にしてもらうことで経済は回っていく面がある
確かに数字の上ではそうなのだ
ただ、ここで注意すべきは、その物、商品やサービス、何らかの生産物に本当に価値が有るかどうかだ
そのお金が、商品やサービス、何らかのインフラとかに変換されたものが
価値を担保している「信用」が伴っているかどうかだろう
そして、その産み出されたはずの価値がどこに恩恵を及ぼすことになるのか
既得権益として為政者や政商たちの利益としてだけ偏っていくなら
その信用は、崩れる

いくら信用創造によって価値が創造されても
その価値が一部の者たちだけのものになるようならば、
そのお金に対する信用は、当然ながら消えていく

日銀で作られようが、造幣局で政府が創ろうが、そのお金は使われるために生まれてくる
そのお金は、本質的には、その交換されるものの価値とも一蓮托生なのだ

画像の説明

陰陽の関係であり、不即不離の関係なのだ
数字と物という目に見えている価値と
目には見えない信用という価値と常に一体であり、
目に見えないモノを無視してお金を印刷して市場に投入しても何の効果も無いばかりか
逆に信用喪失でお金の価値は減っていく
通貨の円高や円安の問題は、金利差だけの投資家たちの判断で決まるモノではない
その国の政治家、国民の意識、その社会が造り出しているモノで見られている

そのお金で何が生み出されようとしているかの問題だ
要するに「価値」を支えている「信用」の面から見ようとしていないところに過ちが生れてくるようだ
だれから見ても、その作られたお金で何がその価値に相当しないものであるなら
その創られたお金は善の循環を起こさず、単なる借金を積み重ねることになる
当然ながら財政破綻に向かうことになる

その最高の信用を担保しているのが、神からの信用だ
人間、神の子の意識から生まれてくる神からの信用なのだ
アダム・スミスの神の見えざる手をおろそかにしているとするなら
そのしっぺ返しをその経済は受けることになる

日本の今の財政赤字の問題は、国民へのバラマキが中心であり、選挙目当てであり
自分たちの利得の思いの結果である以上、信用は無くなる

MMT論者がよく使う言葉に、政府財政と家計と一緒に見るべきではないというが
通貨発行権が有ろうが無かろうが、本質は一緒なのだ

一般家庭や企業に通貨の発行権は無いが
しかし、家庭や企業、個人が発行できるものは政府の通貨発行権と同じようなものが有る
個人でも企業でも、価値ある商品やサービスを生み出すことが出来る以上
通貨を発行しているのと、同じなのだ

この陰陽学的な視点でお金というものを見るならば
個人レベルでも企業レベルでも地域社会レベルでも国レベルでも同じである

その単体が生み出す何らかの生産物に価値が有れば、信用が有るモノを生み出すことが出来るならば、その善の循環は、必ず、その経済を発展させることになる

神の眼から見れば間違いなくそうだ

今のように、政府財政が赤字を加速度的に積み重ねている現状は
企業が借金を重ねていながら、収益は増えずに、借金に借金を重ねているようなものである
そこの仕事が、価値ある仕事でない為に起きている現象である

本当に価値有る仕事ができていれば、財政派均衡化する方向に向かい
松下幸之助さんの無税国家論を推奨している幸福実現党の見立て通りに
その仕事の価値が、本当に素晴らしければ、本当に無税国家への道が開けていく

赤字体質など有りようがない

今、日本が財政赤字を増やし続けていることを、恥ずかしく思うべきなのだ
政治が価値有る仕事(神から見て)をしているなら
自然に財政赤字は縮小していくことになる
それは、「運が良くなる」と表現するしかないのかもしれない

たとえ、生きているうちに結果が出なくて、成功しなかったとしても
その存在が生み出したものは、死後であっても、必ず神の眼から評価を受ける

その存在が、本当に価値有るモノを生み出していたならば、神は、それを無視されることは無い
法則として有り得ない

イエス・キリストの人生がそうだ
彼は生きている時に、どれだけの価値有るモノをこの世界に産み出しただろうか
3年ほどの伝道期間しかなかった
目に見えているモノで見るなら
彼の言動は、最後、罪人たちと一緒に処刑されることで終わっている
その彼の愛に関する教えの価値は、いったいどれだけ神から評価されたのだろうか
世界宗教となり多くの恩恵を生み出してもいる

ただ、その教えを表面的にだけ理解して、自分の都合で使う人達があまりにも多い現実もあるのも事実だ
それほど、価値の本質を悟ることは難しい

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