陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

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立花隆の霊言

「知の巨人」のその後―世界は虚無だったか―
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=2609

立花隆という人、生前から感じていたことは
どこが知の巨人なのかと疑っていた

というよりも、左脳的に記憶力も良いし、頭の回転も良いのだろうとは感じていた
だが、左脳的には良いとしても
右脳的には、愚かな人だと思っていた

こんな人が、現代社会には多い

この書籍は、公開霊言という形で本人の霊を入れてインタビューする形で行われるので
本心が強く出てくる
思っていることがストレートに言葉になってしまうのだ


書籍化されたのを読んでいて思ったのが

私の友人にも同じような人が居ること
私の兄も立花隆氏と同じころに帰天した
共にこの立花氏と同じようなものなのだ

ただ、彼のように本をそれほど読んでいないので
まだ、議論はやりやすいとは言え説得するのは困難だった

友人にも兄にもしばらくインターバルを置いていた
兄には、もう話す機会を失ったけれど
死後、時々、私の所にも来ていたようだ

私の意識の中に、信じられないような意見のイメージが浮かんでくる
不思議に思い、なぜだろうと考えてみると兄の考え、言っていたことと同じようなことが頭をよぎるのだ

今は、他に課題が一杯あってそちらを考えているので
兄にイメージを合わせるようなことが少なくなったけれど
昔、霊道の開けた友人とのチャネリングを思い出すと
いつでもどこでも、何らかの霊人たちに取り囲まれ意見を吹き込まれようとしていることは分かっている
その中での「正しき心の探求」を戒としている

この立花隆氏や友人、兄などの無神論、唯物論の人たちのおかげで
私のフラクタルの森(陰陽学)は出来てきた

どのように観ているのか
簡単に説明するなら、次の図が的を得ている

5w2h

これは3つの領域に分かれる

世界・があり、思い・があって、行い・が有り
そして結果が出る
その結果が世界の一部になり、また、繰り返す

立花隆氏たちは、左脳的な行いと結果にこだわりすぎる
左翼思想も、右翼というか、全体主義的な考えになる人も同じで
この部分ばかりを観る傾向にある(レプタリアンも同じ)
知性と理性の部分だ

もう一方に、悟性と感性に関わる右脳的な部分があるけれどこちらに問題がある場合が多い
要するに感性が鈍いのだ
ただ、頭は良いために結論を急ぎ
「なぜ」という問いかけが、途中で止まってしまうようだ
悟れていないとも言える

そうなってしまう原因は、世界観の所が左側にある人たちだからだ
普通は、その傾向性を持っている
何事でもそうだが、前提条件を間違えると後のモノに狂いが生じる

世界観が小さく狭くチッポケな為に、右脳的な「何を(悟性)」「なぜ(感性)」の所が無視されやすくなる
記憶力が良すぎる反動なのかもしれない

結果を出さなければ意味が無いという考えも分かるが
永遠、無限、必然という視点を入れれば
結果を生みだす原因を無視して、この宇宙は成り立つわけが無い

それが、陰(原因)と陽(結果)の考え方だ



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