陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2021-08-13

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神の視点で考える 

といっても、私が神と同等の認識レベルを持っている訳でないことは当然

フラクタルの森的に考えるのだ

どういう事かというと、
私には子や孫が数百人おり、世界中に散らばって住んでいる
そして、私は数兆円の資産を持っている(紙幣の印刷機も持っている)
自由に動かせる優秀な人材も大勢いる
そんな自分を想定してみるのだ


もちろん、私の世界観は、次の図の右側

画像の説明

そんな自分が、子や孫がやろうとしていることに対して判断を加えるのだ

このような視点を持つことが出来れば
国レベルでやろうとしている事の正邪の判断が簡単にできる

子や孫の幸せを願わない親は居ない
ダメな親は別だが
甘やかせ、子や孫の精神が堕落していくようなことに力を貸す親は居ない

三橋貴明氏のサイトから学ばせていただくことは多かった
ただ、算盤のことは学んだが、何か違和感がありスッキリしなかった
その理由を考えると、彼には論語的なことが不明瞭なのだ

論語の奥にある神なる存在、天なる存在を蔑ろにしている

神や天なる存在を信じられないのなら
この私のような考え方をしてみるのも一つ

ただ、考え方を絶対に間違えてはならないのが
図で示した人時所に対する認識だ

人間とは、転生輪廻を続け魂の向上を目指して永遠に生きている存在だという事
この認識が無ければすべてが狂ってくることを知るべきだ

本当に、死んで全てが終わりならば、次の図の左側の判断に向かってしまうだろう

画像の説明
「お為ごかし」「表面を飾る」というように
自分自身の良識や優しさが空回りを始めてしまう

そして、世界を次第に濁って停滞したものにしてしまう
時間を重ねるにつれてそうなってしまう

創造主が、そのような成果を期待して
この宇宙を創られただろうか?

このように考えていくと
政治にかかわる人には、絶対に信仰心が不可欠なのだ
その人の世界観がどこにあるのかこれらの図で明確にしてもらう必要がある
絶対条件でもある

人は、自分を観るように人を観る
自分の中に神仏の子、神の子の断片を観られなければ
自分を神とし、自己を中心として
自己の利益、自己の都合、自己の感覚のみで判断する

優しく、良識的でありたいと願っていても
その自己評価の基に判断する内容は、自己中で強欲的な人たちと同等なのだ
単純に、優しさと厳しさが蛇行する
調和と進歩の理念が蛇行する
蛇行した先には、転ぶしかない

その原因は、両足で立って歩いていないからだ
その原因は、額に有るといわれるチャクラで考えていないから
だから、そこから上昇するチャクラ
天(神)なる存在からの視点を得ることが出来ないから

今、神が肉を持たれ
今、救世主が降りられている
全てを見通し、それぞれの魂が向上するための教えが説かれている
宇宙の秘密、全宇宙の秘密まで踏み込み
宇宙的存在たちも救世主に協力して
この地球環境という魂修行の場が崩壊しないように星空の中で見守ってくれても居る

単に、目の前の苦難困難を私たちの前から取り払うためではない
親が子を観るに、手助けはしても、自助努力の精神無ければ
手を貸すことが魂の堕落や後退の原因になるようなら
助力を与えることは無いだろう

教えは説かれるが、実践するは私たちだ



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