陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2021-08-03

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神から観た善悪をどのように判断すればよいのか

お金(債権も含め)を発行するということは、お金を使うということとも関連する
どう使うかによって、その価値に違いが出る

その国の通貨が信用を保つためには、あらゆる要素が有るだろう
それを判断するのに必要なことは、客観性


客観性といっても分かりにくいけれど
自分を離れて考えることではあるが
逆に、自分の中に深く入り込んで考えるということも大切になる
それでも、自分の立場や利害から離れる必要がある

人が神仏の子であるなら
素直な考えの中に神仏の価値観も含まれて有るということ

神(創造主)なる存在であるならば、全人類の親である
全人類を我が子と観て、その我が子の未来を見据えて判断すれば良いことだ

我が子や我が孫が、堕落し醜い人生を送ろうとしているなら嫌だろう
逆に子や孫が、親から観ても感動するような生き方をしているなら
陰ながら応援したくなるだろう

自分自身の今までの生きざまを見て、恥ずかしいところも有れば
ほめてやりたい部分も有っただろう
その善悪の判断は、キチンと振り分けることは出来ない部分もあるけれど
一人前の人生を経ることが出来たなら大体わかってくることだ

それでも、判らなければ
ドラマや映画を想定してみれば良い

主人公の生きざまを見て感動できるかどうか
結果を得ることさえできれば感動できるようなモノでは
その感動は薄っぺらいものとなる

たとえ、最後に失敗して命を落とすようなことがあっても
その心の中に崇高な景色を観るならばその感動は大きく価値あるものとなるだろう

ただ、その感動が価値あるもので有り、納得できるためには
人生の見方を間違えているとそうはならないかもしれないのだ

死んだら終わりで、肉体だけでなく魂も消え去ってしまうので有るなら
他者を犠牲にしても自分の生き残りをかけて戦うしかない

唯物論、無神論、であるならそうなってしまう

しかし、魂は永遠に在り、転生輪廻をしながら成長しようと努力している存在だと信じることが出来れば違ったものとなる

結局は、悟りと縁が深いものだということだ

イエスとか吉田松陰とか、歴史上の偉人として尊敬されている存在たちは
自分の目先の利益など考えていない
しかし、彼らの伝記に触れると涙が流れる
何故だろうかと、いくら考えても理由がわからないが
その価値自体を心の中のあるモノが感じているのだろう

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