陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

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判断(思い・陰)と行動 (行い・陽)

人も社会も国家も
判断して行動して時を進めて行く
そして、その結果を私たち自らが受けることになる

その判断にはフラクタルの森的に言えば
陰陽の二つがある
それが、また、二つに分かれている

基本のひとりの人間で観る

まず一つは、好きか嫌いか
やりたいか、やりたくないか
したいと思うか、思わないか
要するに右脳的な感覚的な好き嫌いの判断がある

そして、もう一つは、左脳的な判断がある
した方がいいのか、それともしない方がいいのか
するべきなのか、するべきでないのか
要するに、左脳的な理知的な損得での判断が有る

左脳的なものと右脳的なものが合致すれば
ゴーサインが簡単に出る

反対に両方でNOの判定が出るなら、これも簡単にストップがかかる


右脳的なゴーサインと左脳的なゴーサインが出ると前に向かって簡単に進み出る

逆に、右脳的なゴーサインが出ても左脳的にゴーサインが出なければ、迷う事になる
逆でも同じだ
      
画像の説明

ただ、その左脳的感覚的な判断と
その右脳的理な判断が正しいのか間違っているのかが問題になる

好き嫌いは、人時所の違いで変わり
損得の判断も、当然ながら人時所の違いで変わり、その能力によっても違ってくる

本当は、この時に、客観的判断が必要になる
自分の、自分たちの都合や立場を超えた善意の第三者の判断だ

画像の説明

この客観的視点といっても、凡人の場合は、どうしても自分たちの都合を持ってきてしまう
客観的視点を入れようとするとき、本当は、全人類をわが子と見ているような神さまを想定する必要があるのだが
その時でも、どうしても、自分たちに都合の良い神さまを選ぶ

せめて、最低でも地球神
出来るならば、全宇宙の創造主であるのが一番だろう

だが、宗教が堕落して真なる神ではない神格を有しないものを信じる人たちも増えている
拝金教や悪魔崇拝まである
要するに結果主義的な考え方だ

結局、社会的に正しい判断がなされるためには
ひとりひとりが、神近き存在になろうという風潮が不可欠なのだが
現代社会では、死後の世界を意識することなく
当然、霊的世界を否定的に観て神仏の存在も感じようとしない以上
難しい

死後の世界の有る無しをいろんな人に質問しても「無い」という判断の人が多い
ということは、客観的な判断がこの社会では無理だという事

結局正しい判断が出来ていない可能性が有る以上
悪い結果が社会を覆っても仕方がない



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