陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2021-06-10

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何を信じるか?無宗教という恐ろしさと愚かしさ

日本人でも「私は、無宗教です」と公言する人が多い
さらに何らかの宗教に属していると言いながら実質無宗教の人もいる

仏教徒でも葬式の仕方をお寺でしているだけとか
キリスト教徒でも習慣として教会に通っているのでキリスト教徒だと思っている人
新年には初詣として神社仏閣にお参りする人も多い
神社を見かければ参拝している人もいる


そのような人たちに「あなたは、何を信仰していますか?」と聞いても
明確な答えをする人は少ないだろう

私が信仰している「幸福の科学」の会員に聞いても
どれだけの人が、明確に信仰の対象とその中身について即答することが出来るだろうか

私は、大川隆法という存在が救世主であり全人類の親であると信じているし
霊的世界が有り天国地獄もあり、肉体は無くなっても意識体、魂は残り
永遠の転生輪廻の中で魂の修行をしている存在であると信じている
様々な霊的体験からも、そのことを確信している

「大川隆法」という存在が、救世主であり、全人類の親であると
なぜ信じているのかと考えると、
そのことを証明する術を持たないが、30年以上学び実践する中で確信するに至っている

私は、昔「聖書」を初めて読んだ時の衝撃は強かった
私は、イエスを救世主だと今でも信じている
しかし、クリスチャンになったことは無いし、教会はイエス自体を冒とくしていると強く感じている

なぜ、イエスを救世主だと思っているのかというと
聖書の中に記述されている数々の奇跡のせいではない

一番感動したのは、その理由ははっきりとは分からないけれど
「汝の敵をも 愛せよ」という愛の教えだった
今、思い返しても涙があふれてくる

ゴルゴダの丘で処刑されている場面では、
聖書を読んだときは見たくないという気持ちが働いていたのか
読んだという記憶が残っていない

しかし、そのことをイメージしただけで
私の中の潜在意識といってもいいのだろうが
私自身の前世の記憶(ファイル)が表面化するとしか考えようがないのだが
人前をはばからず涙が流れてくる

私自身、なぜそのような反応が私に起きるのか
どんなに考えてもその理由が見つからないのだ

潜在意識の中に記憶されたものが有るとしか考えられない
かといって、まったく、教会に帰依する気持ちなど全く無い
牧師さんの説法を聞いても
心の中から湧き上がってくる言葉は
「間違っている イエスを冒とくしている」ということばだ

もちろん、悪霊や悪魔のそそのかしが有ることは知っているし
その判断の難しさも知っているつもりだ

その善悪の判断、正邪の判断の基準は「愛」にあると確信する
「与える愛」だ
もちろん、前提としている世界観に間違いが有ると論外ではあるが
フラクタルの森の「なぜ」の部分に何が入るのか、これに尽きる

ここに入るもので、世界自体が変化していく
前提となる世界観と関連し連動し、世界自体も変えていくようなのだ

画像の説明

世界観が次の表の左側にあるなら
死後の世界、霊的世界、彼岸という世界が無いのなら
この「なぜ」のところには「結果」しか入ってこなくなる
結果主義にならざるを得なくなる

画像の説明
どんなに自分自身が善良で良識ある人間だと信じていても
本質的な所で宗教を否定しているようだと
この「なぜ」のところには、結果しか入ってこなくなる

「愛」の心を入れていたとしても
奪う愛、ご都合主義の愛しか入ってこずに
結果としての具体的なものしか入ってこない

この見えにくいものを観る目というのは、悟りが進まなければ見えてこないのだろう

今、宇宙レベルで教えが説かれ
宇宙的闇の世界が今、地球を覆うようになっているようだが
どんなに科学技術が進んだ宇宙人であっても、愚かとしか言いようがない

この「なぜ」のところに入るべきものが空白だと
結果を出さなければ意味がなく弱肉強食の世界を地で生きるしかなくなる
そのような勢力が
霊的にも中国共産党の中に入り込んでいて、勢力を伸ばそうとしている
そして、日本でもそのような人たちが中国の覇権拡大に協力し
無宗教という人達(中国共産党と同じ世界観)は、その戦略に取り込まれて協力している

その可能性が大なのだ



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