陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2021-06-07

Top / FrontPage / 2021-06-07

催眠術と思い込みと、宗教

宗教は一段低く観られる傾向があるようだ
宗教という言葉には、一種刷り込まれた色が有り
宗教とは、心弱きものが救いを求める為にあるように思い込まれているようだ

確かに救いの面も有り、御利益も有るだろうが
目に見えない世界を含んだ正しい世界観を示そうとしているのが真実だ
世界を観る眼が間違っていると、良かれと思って成したことが
逆に働く場合もある

目に見えない世界など無ければ、宗教など必要ないのかもしれない

この宗教という言葉を、別の視点から見て見よう
どうやら、信じ込んでいるという認識なのだろう


原点に返って考えて見ると
「信じている」という事は、価値観と無関係では無い

そう考えると、誰であれ、信じているモノは有る
何に一番価値観を感じているのか?
宗教は無関係に思っている人であっても
その価値観の中心に置いているモノは必ず在る

何を信じているのか
何を価値観の上位に置いているのか
考えて見ると面白いことが見えてくる

もちろんながら、宗教心が有る、信仰心が有ると言っている人でも
それでは、具体的に、何に一番価値を感じて判断しているのか
その心の内面を知ることは難しい

しかし、整理するとなんとなく見えて来るだろう
結局、色んな主なる神が存在する

お金を信仰している人も居るだろう
名誉かもしない
大手メディアから流れる情報かもしれない
常識と言われているようなモノでもあるだろう

要するに、自分に入れ込んだ情報を元に基本的な価値観が造り上げられている
自分教でもある
これは、仕方がない面ではあるだろう
ただ、これが、必ずしも正しい訳でもないことは、歴史上でも経験値からしても明白だ

創価学会・公明党という宗教もある
幸福の科学・幸福実現党という宗教もある
そして、唯物論・無宗教という宗教もある
一神教・イスラム教という常識があり、国家も運営されている
キリスト教国、仏教国と言いながら
本来のキリストやお釈迦さんの教えから大きくかけ離れているものもある

宗教とは、書いて字のごと、宇宙を指し示す教えである
要するに世界観の事だ
この世界を観る眼が間違っていると、後のモノが全て狂ってくる

何が一番狂ってくるかというと、主体とする者に違いが生じてくる
主体とする者が変わると、当然ながら、思いの中心も変わってくる

画像の説明

大多数は、考えの中心は「自己」の中にある
「他者」の視点で、時には考える事が出来ても、どうしても自己という足場を通してになる

ここに「信仰心」が加わると違ってくる
この神なる部分にお金を持ってくる人が多いのだ
自分の利得を持ってくる人が多いのだ

無宗教、唯物論、科学信仰の場合は、そのようになってしまう
その結果、どんなことが起きて来るのか考えて見ると良い

本来の神が神の位置に座っていただいていなければ
さて、どんなことが起きて来るだろうか

世界を観る眼を間違え、最高に価値あるものを間違えると
いったいどんなことが起きて来るだろうか

時間、空間、人間を観る眼が小さければ
思い(動機・設計図)の中に
行い(結果・成果)ばかりを観るようになり
弱肉強食の世界になる

世界を良く観ると「共存共栄」の面が見えて来るのに
「弱肉強食」の世界で生きるようになる

画像の説明



コメント


認証コード(8285)

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

備前焼