陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2021-03-08

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神頼み

無神論の人でも仏壇や神前、教会の祭壇の前にて手を合わす 
無神論の方でも、質問すると「信仰心」は有ると言う


何をもって信仰と言われるのか、不思議ではある
私が生まれ育った家も
毎朝、仏壇に向かいお茶を換えたりお供えをする

大阪の知り合いの在日韓国人の人も
家に帰ると必ず仏壇の前に座り手を合わすようだ
彼は、お金を信仰しているのかと思うぐらいの人で
仏壇の前で手を合わす姿を見て驚いた

どうやら、習慣でそのようにしているようだ
どうやら、気休めの感じでの行動のようなのだ
ご先祖さまが守ってくれているような気がしているのかもしれない

神さまとかの存在を聞いても、無いと言う意見なのに
神社仏閣では、手を合わせ頭を垂れる
潜在的には、知っていて感じているのだろう

ただ、創造主のことを聞くと、ほとんどの人が否定的だ

どうやら、自分自身との距離感が問題なのだろう
自分と神さま(創造主)の間には、他者という存在がある

自他一体という概念が有り
家族に対しては実感しやすいけれど
どうしても、自分の中だけで完結しがちだ

悟りという中に自他一体の思いの中身のレベルが問題となるが
自分という存在が
大きく広く深く広がる必要があるのだろうが
揺らぎながら成長しようとしているのが実態なのだろう

ただ、問題なのは、無神論者、唯物論者の陥る闇は、
自分自身を神にしてしまうことだ

それぞれ、神の子と仏の子であるには違いがないけれど
創造主を信じることができなければ
どうしても、そのようになってしまうのだろうか
科学技術が発達してなんでも出来る様になると
創造主の位置まで自分自身を持っていくことになるのだろう

神にも良い神、悪い神、普通の神がある
神を良きものと定義した時に
悪い神とは、悪霊であったり、悪魔となるが
そのような神を信仰する者たちもいる

自己中の中に居る時は、
自分の信仰を疑うことはない



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