陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2020-12-24

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自分自身の中にある良い子悪い子普通の子

もっとはっきり表現するなら
自分自身の中にも善悪がある


何が善んであり、何が悪であるのか
次の図の自と他の対立は、自分自身の中でも起きる
画像の説明

自分自身が正しいと思っていても
状況の変化の中でその正しさの価値が変化している事がある
人が変わり所が変わり時期が変わると
その正しさにも変化が起きる

ある意味、善悪を決めるのは難しい所がある

自分の中の善悪の判断と
他者の中での善悪の判断
この4つが絡み合い結論を出そうとするのだろうが
結論が出て実際にそれが現象化して結果として現れて
それが、実際にも良かったのか悪かったのか
その判断自体にも意見が分かれるだろう

そのように考えると
とても難しく、結局は思考停止させたくなってしまう
そこで、何が大切なのかと考えると
それは柔軟さなのだろう

その柔軟さの背景には
絶対の信仰心が必要なのだろうと思う

神様の多様性を認める柔軟さを意識しておくあ必要があるのだろう
自分の中の善悪と
他者の中の善悪と
全てを包み込んで
その中から素晴らしき良きものを生み出そうという気持ちが大切なのだろう

そのために重要なのが、
自分の中にある悪、間違った見方と判断を
冷静に見る勇気なのかもしれない

もうひとつ、
他者の中に有る善、良きところを認める勇気
それも必要なのだろう

とにもかくにも、判断ということは難しいけれど
その中にあって重要な視点が有る

それは、真善美の考え方だ
この物差しを常に持って考えなければだめだ

私は、この真善美の考えも当たり前すぎて逆にイメージがしにくいので
逆から見るようにしている

それは、真偽、善悪、美醜の中の偽と悪と醜だ

自分の判断の中に偽物が紛れ込んでいないか
悪しき思いが紛れ込んでいないか
醜い思いが紛れ込んでいないか

ある意味、この陰と陽の両面から見なければ
真、善、美といってもイメージがしずらいのだが
この真偽、善悪、美醜の両面から見ると分かりやすい

偽物の自分
醜い自分
それらが心の中に溜まったままでは
とても気持ちが悪い

この物差しを当ててみて
善か悪かの判断は、より正確になるのかもしれない



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