陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2020-05-20

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世界の心が狂った反動は?

画像の説明

人々の世界観が狂ってきたとき
その反動は、神からのメッセージとして
様々な災いが下されて反省を迫る


唯物論、無宗教、無神論(左側の世界観)
であると、どうしても主体が自分自身になってしまう

偉大なる存在、神なる存在を
自分たち以外のところに求めることなく
何か困りごとが起きた時だけ何かにすがる思いが出てくる

その時に初めて神なる存在を意識するために
宗教者を自分を見るように見てしまう
そのために、宗教組織に入っている人々を心弱き人々と観て
マルクスのように宗教を大衆の麻薬の如く観てしまうのだ

「自分を見るように人を見る」ということであり
それが証明することは、論理的に観て
自分自身のご都合主義を晒すことになる

困った時にだけ頼み事をして
それ以外の時には神など信じず不遜である

もちろん宗教者の中にはそんな人たちも多数いる
聖書のヨブ記にもあるような人達もどうしても居る

しかし、宗教の本質とは何かというと
常に神の視線があり
神の願いがあって全てが存在していると考え
その神の願いに叶うように生きていこうとすることである

あのリンカーンも南北戦争を戦う時に
その戦いを神の視点から観て間違いがないかどうか
涙を流し神に祈りながら戦っていたようだ

それに比べて
共産主義は、優しくあろうとするのだが
神仏を、宗教を、否定的に見るために狂って来る

日本でもアメリカでも
共産主義まではいかないまでも社会主義的な世界観が広がっている
神を主たる存在とすることなく
皆に優しい政策を実行しようとする政治勢力を支持する傾向が有る

れいわ新選組の山本太郎氏に熱狂するような人たちも多く居るようだ
神の視点から考えようとしないために起きている現象である

皆、誰であれ、神仏の子である以上
自分の心の奥底を観れば見えてくることなのに
表面的なアメやムチで簡単に操られるようであるならば
まるで家畜のようでもある

家畜なら家畜のような扱いをせざるを得なくなるのだろう

どうやら、今起きているパンデミックは、
家畜が疫病にかかっているために
その拡散を防ぐために行われている事のようである

旧約聖書の中の「すぎこし」(ペサハ)にあるようなことだろう
本当の信仰を持ったものと
偽りの信仰を持ったものとが分けられる時なのかもしれない

自分たちが神となって全てを支配していると思い込んでしまう事の
その愚かさを
神がいつまでも許されることはないだろう



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