陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2020-04-25

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天罰

ハードにもソフトにも設計図が有る

設計図(陽)が有るということは、
設計者(陰)が居るということ

ソフトにはプログラムがあり、
プログラムにはプログラマーがいる

プログラマーや設計者が居るということは
造ろうと思った存在がいるということ
イメージを投影した存在がいるということ

土で造られる器にも
設計図(イメージ)が有り設計者(作陶家)がいる
その器を求めてくれる人達がいる


私たち人間や動物、植物、生き物にも
ソフト(本能)が有りハード(体)がある

であるならば
それぞれにプログラマーや設計者がいるはずだ
それを欲した存在が、必ず背景にはいる

プログラムされていないことは
決して、起こらないし
存在すら出来ない

そこに、神仏の存在を感じ取らなければならないのだろう
そして、その神仏の願いを考えなければならない のだろう

この宇宙には様々な存在があるということは
様々なイメージを投影されているのだろう

という事は
様々な陶芸作家がいて様々な器が生み出されているように
いろんな神様が存在するのだろう

しかし、この宇宙は、その渦巻き構造が示すように
全てを内包しつつ広がって、また、一つにまとまって渦を巻いている

おそらく、全ての存在の究極には
全存在を我が子と観ている主たる存在も在るのだろう
全存在を我が一部と観ているような存在も在るのだろう

それが一体何者であるのか分からないし
その根本の光が全存在に何を願っているのか分からないけれど

ここに、今、私たちが在るということは
間違いなく何らかの願いが込められている
創造主の願いが込められている

「神は、自らに似せて人間を創られた」という言葉もある
この意味するところは
非常に重いモノが在ると想うのだ

今、様々な災いが降ろされている
それらには様々な経過が有るだろうが
それらの因果の大元に何が有るかと考えると見えて来るモノがある

様々な災いが人類を襲っているなら
それは、おそらく、創造主の願いから人々の心が離れて来た結果なのだろう
天罰として反省を迫られてもいるのだろう

天なるもの、崇高なモノを求める必要が有るという事だ



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