陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

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宗教とは、何?

宗教とは、書いて字のごとく「宇宙を指し示す教え」ということ
宇宙とは、世界
世界を陰陽の二つの視点で見ると
仏教的に言うならば、此岸(この世) と 彼岸(あの世)
哲学的に言うならば、現象世界 と 心象世界

宗教で言う宇宙とは、この両方を含み、重点はより前者にある
宗教に対する「無宗教」が有るが、こちらは「あの世」を認めない


無宗教が流行ったのは、マルクスなどの影響が大であろう

「宗教は大衆の麻薬である」として、信者を薬物中毒患者のように見る
非科学的なことを迷信として切り捨て
目に見えず証明できないことを認めない
貧困層への哀れみなのか、嫉妬を正当化する
マルクス経済学がどれほど愚かなモノかは経験値が教えてくれるが
今だそれにしがみついている者もいる

無宗教は、マルクス教であることが多いが

別の視点で見ると、自分教である
神なる存在を否定するとなると、考えの重点は自分自身の中に在るという事になる
 同じような視点で他の宗教を見ると面白い

基本の形は次のようだ

仏教は、釈迦教
キリスト教は、イエス教
イスラム教は、マホメット教
ユダヤ教は、モーゼ教

しかし、現実はその中で「自分教」に様々に分かれている
イスラム教では、スンニ派やシーア派に
キリスト教では、カソリックやプロテスタントや統一教会、エホバの証人、モルモン教など様々
仏教はもっと多い
創価学会は、仏教だが日蓮教になり、今は、池田教かもしれない
自分の理解を越えられず、自分の解釈でその考え方を中心に置いてしまう
やがて、本来の考え方から離れ自己流になるのは仕方が無いことだ

ただ、「世界」を目に見えているだけの世界と見るなら
ただ、「世界」を正しく見られなかったとするなら
自分の都合で変化させてしまうなら
愚か者となってしまう事もある

しかし、無宗教の中の「自分教」ほど気の毒なモノは無い
中心とする考えは、自分自身である    (自己中)

曲がりなりにも宗教を信じている人の中には、中心とする神なる存在の考えがある
曲がりなりにも客観視するための座標軸が自分を離れたところに有る
しかし、これも本来の正当な教えを離れ自分流の解釈に落ち込んでしまう
それでもよりましなことを知るべきだろう。

ただ、一言付け加えておくが、この「無宗教」の「自分教」の考え方は強力だということ

中国や北朝鮮を見ればわかる
自分の中の正しさが正義となる
この国家社会でトップを取ることがで切れば
自分が神様である
反対意見など抹殺すれば良いだけになる

当然ながら、本来の神の眼から見ればどう見えるかである
全人類の親である存在はどう思われるだろうか

究極の価値ある存在の応援を得ずして成り立ち続ける存在は無いのではないか



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