陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2018-07-26

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「考えるということ」

人は、「考える」ということをどのようにとらえているのだろうか?
辞書に書かれているのが
「 物事について、論理的に筋道を追って答えを出そうとする」とか
「 知識や経験などに基づいて、筋道を立てて頭を働かせる」と、ある

要するに、「正しい情報をもとに論理的に筋道を立てて、結論にたどり着こう」とすることのようだ

その論理的とは、「考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て」と有る

結局は、「言葉」にて「文章」にて説明したり、認識したり出来ると言うこと
ということは、5W2Hとか言われている要素を精密に埋めていくことでも有るだろう
 
画像の説明


情報を正しく説明する場合でも必要であり、
正しく物事を認識するためにもおさえて置く必要が有る

しかし、意外と、高学歴の人ほど「考える」ということが出来ない人が多いように思える
地面から上の表面的な所だけで終わっているように思えるのだ
深く掘り下げて考えることが出来にくいその原因は、何だろうかと考えると
なまじ頭の良さがブレーキになっている可能性が有る

私などは、頭の悪さがたたって何でもすぐに理解が出来ないために
何度も「なぜ」を繰り返してしまう
「なぜ」という言葉は不思議な言葉であり色んなところと重なり合う
「どのようにして」も「なぜ」という問いに対応しているのだが
「なぜ」を何度も繰り返していると本来の「なぜ」の部分である動機だったり設計図の所に入り、さらには、「世界」の所にまで入り込む
心象世界(真理)の所まで入り込んでしまうのだ
現象世界(人、時、所)の違いに対する対応は、頭脳明晰な人にとっては得意領域だろうが
この見えない世界の認識についての探究には、証明も出来ないし認識することも難しいので多くの人は、ここで思考を停止させてしまう

そして、その正しさをどのようにとらえるべきかという問題もある

正しさという問題もいろんな角度で見ることが出来る

正しさのとらえ方には、次のような段階があると考えられる

現実ー事実ー真実 そしてこの先に 真理がある

盲目の人が象に触り、象とはどういった動物であるのかと発表し合うお話がある
現実は、それぞれが触った場所で認識される多様さが有るということ
事実は、その多様な認識をつなぎ合わせ合成し全体像が見えてくること
真実は、外見の全体像が見えたとしてもその象の形だけしか分からないこと
真理は、外見の全体像が見えたとしても、それを取り巻く世界の真実まで掴まなければ、
    結局は分からないという事

今まで、「なぜ」を何度も繰り返してわかったことだが
人の意見は多様であり、色んな意見があり対立する意見も多数ある
その意見の違いは何だろうかと考えると
結局は、この「世界観」(心象世界)の違いでしかないようだ

現象世界(人、時、所)、立ち位置の違いだけでなく心象世界(真理)の見方の違い
言い換えると思想宗教の違いで意見は様々に分かれてくる
これは現実であり、事実で有り、真実です

政治などでも意見が分かれるのはここの違いですので
政治家を選ぶ時には、この思想宗教を開示してもらえば
本当は整理がつきやすいのです

心象世界、私たちがイメージ出来る
私たちが生きている時間と空間はどのようなものであるのか、
そして、そもそも、人間とは何であるのか
前提とされるモノ、土台が違えばその上に乗っかるモノも違ってきます

要するに「悟り」に関係しますが
間違った事を真理と勘違いしていると
あと、良き思いで良き行動をしているつもりでも
客観的に観ると愚かな事をやっていることが有ると言うことです

死後の世界も無く、神仏なるモノも無いという世界観で考えた場合と
魂があり、転生輪廻しながら、神仏の導きの元修行しているという世界観では明確に違ってきます。

考えれば簡単にわかることですが
目には見えない、証明も出来ない世界観ですので
なまじ頭の良い人たちは、評価や結果を手に入れることがたやすいために
思考を停止させることで上手に生きているようです



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