陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2018-07-24

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フラクタルの森の考え方の原点はどこだろうか?

一つは
「世界は、陰と陽で成り立っている」ということ
もう一つは
「PCは、2進法で成り立っている」ということ
そこで、考えられるのは
人生も社会も世界もPCと似ていると考えられるという事

考えて見ると
車の運転でも、2つの選択の連鎖とその重なりで成り立っている

乗るか乗らないか、エンジンを始動するかしないか、
ギアを入れるか入れないかに始まり
アクセルを踏むか踏まないか、ブレーキもそうだ
そして、その状態からさらに踏み込むか踏み込まないか
ハンドルを右にするか左にするか
様々な判断が重なりあい連続して複雑な判断を繰り返しているけれど

瞬間、瞬間を切り取ってみるとPCと同じようなことをやっているようだ


これは、人生も同じだ

結局、瞬間瞬間に二つに枝分かれした道をどちらにするか決めて
人生行路を旅しているといっても過言ではないだろう
その2択の連鎖で幸不幸の道を選んでいるのが現状だろう
もちろん、こちらでは幸福を選択しあちらでは不幸を選択しているように
一律ではないだろうし、不幸を選択したのちでも次の選択で幸福への道を選ぶ場合もあるだろう
一つの選択だけで全てが決まってしまう事でもないのだろう
寄り道をしたおかげで幸福への道が盤石なものとなる場合も有るだろうし幸福への道が石ころだらけになる場合も有るだろう

幸福というテーマより
裕福とか豊かさというテーマの方が分かりやすそうなので
こちらで考えてみる

豊かになる道と貧乏になる道とがある
行動だけでなく観方、考え方でもその道は選択される
行動の部分だけでその道が選択されているのではなく
行動の前の観方考え方が重要なのだ

共産主義、左翼思想、リベラル傾向を持つ人は
表面の結果生まれた格差だけで判断しているけれど
考え方の中に共産主義の国家が貧乏になっていく道と同じ選択をしている
それは「嫉妬心」である

成功者たちを観る場合、「嫉妬」と「祝福」という2つの道が分かれている
裕福な人たちを観るときに、嫉妬の思いで見る場合と
祝福する見方が有るという事だ

裕福な人、成功者を観るときにとてもうがった見方をする人がいる
「うまいことやりやがった」とか「環境が良かっただけだ」
「金持ちは大なり小なり汚いことをやって儲けているのだ」とか
自分がなりたいと思っているはずの成功者をこき下ろしているだけでなく
これは、ある面、自分を見るように人を観ているだけであると同時に
そのような裕福な人間になるという自分の中の理想像をけがしていることになる

仕事というものは、人のお役に立たなければ利潤というものは循環して入ってこないものです
これが基本中の基本で有るにも関わらず
お金持ちが人のお役に立っているという事実を見ようとしない
間違った見方の方を選択しているからです

もちろん、悪事で財産を築いているような人もいるでしょう
それは地獄に落ちる気の毒な人たちです

観方に置いて、金持ちを悪人のように見るならば
自分自身、悪人になっても良いと思い金持ちの道を模索するか
もしくは、そのようにはなりたくないと思い貧乏になる道を選ぶかです
その否定的な見方の次には、このような選択が待っています
これは、どう見ても不幸です

日本が、今、相対的に見て貧乏になろうとしている現実があります

多くの人達が嫉妬で格差社会を見ていたりするのでしょうから
その嫉妬という選択ではなく
祝福する方の道を選ぶようにしていかなければなりません

一部の例外を見て否定的な見方を社会に蔓延させてはいけないのです



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