陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2016-11-24

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陰陽の両面を観る必要性

物事を立体的に見るためには陰陽両面を見る必要が有る
両目で観る必要が有る

物事には必ず両面が有るように
抽象的なモノにも必ず両面が有る
空間(他者と自己)時間(原因と結果)人間(感覚と理性)

景色を見るにしても立体的に観るためには両目を開けていなければならないように抽象的な事でも2つの側面を観なければならないようです

たとえば、仕事でもそうです
仕事をして収益を上げるには色んな工夫や努力が必要ですが
自分の視点からの「儲け」の事ばかりを考えていては成り立ちません
他者からの視点、お客様の「お役に立っている」だろうかという視点が同時に必要です

宗教も同じ事でこちら側(此岸)の願いばかりを考えているようなら
信仰といっても手前勝手なモノになってしまいます
邪教の虜になったりします
あちら側(彼岸)の視点も必要です
神仏の願いがあって宗教、信仰ということは成り立つのです

無宗教の人の場合は、世界観の中に神仏は存在していないのでしょうから論外ですが
信仰心が有ると言う人たちであっても
自分が、自分が・・・と自我を中心にしすぎて色んな物事を観る人は
正しく世界を観ていない場合が多いでしょう
神仏の願いも、自分の願うモノに変形させているのかもしれません

最近「ものみの塔」「エホバの証人」の人が良く来られて話をするのですが
何度論理的に、より客観的に話をしようともラチがあきません

なぜだろうと考えながらいつも話を聞き説明をさせていただくのですが
どうも、「自分が」というところから離れにくいようなのです

白紙の上に「自分の世界観」と「相手の世界観」を置いて考えてもらおうとするのですが
白紙の上でということが分からないようなのです
どうしても自分の中にある聖書を下敷きにしてしまっているようです

確かに誰でも、自分の信じている思想、世界観を消し去って全く無の状態で色んな事を観ることは困難なことは分かります
「白紙」の意味は、本当はどこに有るかと言いますと
全人類を我が子と観ているような存在、神仏の視点で公平に見るということなのです
額の中央に有ると言われるチャクラで観る事でも有ります
そのチャクラの視点が、本当の意味での神仏の視点をとることは出来ないでしょうが
そのような見方を努力することは、非常に大切なことに思います
3点測量と言ったりしますが、究極的に客観的に観ることにつながると思います。

世界を正しく立体的に観ることが出来なければ
当然、間違った判断をして自分だけでなく周囲も不幸へと引っ張り込むことになるのでしょう。



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