陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

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フラクタルの森での考え方がどんなプラスを産み出すのか

フラクタルの森では、第三の目で見ることを提唱しています。
第三の目とは、額に有ると言われるチャクラです。
このチャクラは、右脳と左脳の持っている特性とも関連し、体の左右をクロスして統御している人体の構造とも深く関連しているようです。
人が、一番情報を取り込むのに重要な役目をしてくれているのは眼です。
左目と右目は、陰と陽になります。
左脳と右脳に直接つながる部分とクロスして右脳と左脳にそれぞれがつながる二つのラインが有ります。
左目は、右脳を背景に感覚的な情報を見ています。
右目は、左脳を背景に論理的な情報を見ています。

画像の説明

この眼と右脳と左脳とのつながり方を上から見てみると無限大のマークのような形になり、
無限大のマークですから、物理的にクロスしている部分が有ります。
しかし、そのクロスしているラインが接続しているのではないでしょうが、おそらく脳の内部ではその2つのが情報が重なって処理されているところが有るのでしょう。
おそらく、第三の眼と言われるゆえんは、この接点で物事を認識することに有ると思えるのです。

この人体の構造は、おそらく、神仏が人体を設計する時に組み込まれた最大の秘密を内包しているのではないでしょうか。

世界は、全てが陰と陽で成り立っていると言われますが、
その世界を正しく観るために不可欠な構造なのではないだろうか。

フラクタルの森に作られた道は、まさしく、この無限大のマークのような道です。

第三の眼で観る、陰陽で観るとは、どういう事かというと
3つの視点が有ります。
人、時、所、人間的な陰陽と空間的な陰陽、そして、時間的な陰陽です。

人間・・・情と理
空間・・・他者と自己
時間・・・原因と結果

それぞれに、紙の裏と表の関係であり不即不離の関係です。
陰陽の両目で観ながら組合わせて判断しなければなりません。

人間的な部分で言えば、上の図に有るような分類で判断をしています。
第三の眼で観ていない人は、やりたいからやる。したいからするだったり。
するべきだからしなければならないとか、やったらいけないことだからやらないとか、ある時は感情だけの判断で動き、ある時は論理性だけで判断したりします。
もちろん、理性的な面と感性的な面が交互に揺らぎながら判断しているのでしょうがややもするとどちらかに偏ってしまうのが私たちの現状です。

浮気などの問題でも、男性の魂にインプットされたソフト(本能)は、種の保存のためか幾つになっても女性に目がいってしまいます。感情的には仕方が無いのかもしれませんが、左脳的な理性を働かさなかった場合には色んな問題が起きてしまいます。
また、逆に、理性的に色んな事を考えすぎて結婚や子づくりに躊躇する場合も有るでしょう。社会制度に問題も有る場合が有るでしょうが、子育てのリスクなどを考えすぎると苦労して教育を与えるにも高額の負担を迫られるならば止めておこうという判断にもなります。
老後の事も、子供に頼らなくても政府が面倒を見てくれるのだから、そっちの方が気が楽だとも思ってしまいます。多くの人がその様に考えると少子化の時代を迎え、社会を衰退させていきます。
しかし、よく考えると、その政府を支え、福祉を支えてくれるのは次世代の子供達ですので判断としては、間違っているのです。
基本は、産んで育て、立派な教育をして親の面倒ばかりでなく社会のお役に立てるような人材を造り出す義務が有ります。

また、空間的な面で言えば、意見の対立などが有りますが
自分の意見と他人の意見に隔たりが有り相反する時に、人はどうしても自分の考えに固執します。しかし、現実には自と他、どちらが正しいか分からないのです。白紙の上に2つの意見を並べて第三の眼で観る必要が有ります。出来るなら、その第三の眼は、神仏を意識したモノで無くてはなりません。そうでなければ、どうしても自己が主体となった視点しか持つことは出来ません。第三の眼が健全に働くためには、最低限の信仰心がいるのです。
共に神仏の子であり、共に我が子と観られているような存在を想定することが出来なければ、第三の眼で観ることは不可能です。

また、時間的な所を考えるなら原因と結果、結果と原因、その連鎖を常に考えなければなりません。
人は、どうしても結果のみに目がいきます。
現代社会では、格差問題が有りますが、世間は、結果としての格差を問題にします。結果には必ず原因が有ります。
その原因をどう見るかに関わる訳でしょうが、人間的な面、空間的な面、両方とも第三の目で正しく見られない人たちは、格差の原因を社会制度や環境の違いだけに見たり、運が良かっただけのように見たり、要領よくやったからだと見たり、極端になると、成功者は多少なりと悪どいことをやってきた連中だと見たりするようになります。
確かに一部には、そんな人もいるでしょうが、原則は、王道です。因果の理法をくらますことは出来ません。

第三の目で観られない人の特徴が良く出ている常識的に言われている言葉が有ります。
それは、「企業の目的は利潤の追求である」とする認識です。
利潤、儲け、利益は、結果です。
紙の表にかかれている数字です。
お札にかかれている数字が、意味を持ち価値を持つためにはその裏には、「信用」という目に見えないモノが必ず背景に有ります。
それと同じように「利潤」を支えてくれるのは、その企業の仕事が産み出す商品やサービスが社会に対して何らかのお役に立っているという事が不可欠です。
その社会的信用が背景に有ってお金が循環しさらなる拡大再生産とさらなる進化の為に利潤を産み出さなければならないのです。
その様な社会的使命を果たすためにも利潤を産み出す義務が有るのです。
そして、納税という義務も果たし、社会インフラの整備や行政サービスを維持しよりよい社会を作っていくためにも正当な利潤と言うモノは役立っていくのです。
これは、とても当たり前の事ですが、
片目だけで見ていると結果だけに振り回され色んな不都合な社会現象が表れてきます。
躁うつ病もそうですし、いろんな犯罪も、全てがそうです。
また、逆の現象としては、原因の社会貢献ばかりを見つめて無気力社会を産み出し、国力の衰退から福祉などの社会保障費などもまかなえず、国民を不幸にし国を売り渡してしまうような人たちまで出てきます。

全てが陰と陽で成り立っているのなら
やはり、常に二つの面を見ていなければならないようです。
色んな事に長所と短所が有るでしょう。
良い面と悪い面とが有りますが、長所にも短所につながる部分があります。短所と思われている部分にも長所につながる部分も有ります。
どんなに良いことでもすぎれば悪になります。
食事は足らなくても餓死しますが、とりすぎれば害を成します。
暖かさも足らなければ凍死につながりますが、暑すぎれば焼け死にます。
放射線も、生命には必要なモノですが、すぎれば被爆して死に至ります。
窯焚きでも薪が足らなければ温度は上がりません、薪を入れすぎても不完全燃焼を起こし同じく温度が上がりません。

人は、無意識のうちに第三の目を働かせて生きているようですが
ある時、何らかのきっかけで、2つの面を見るのを忘れ、結果ばかりを見たり、自己中心に見たり、感情や理性ばかりに振り回されて、その人生そのものをムダにしているような事が有るのです。

どうやら、その原因は信仰心に有ります。
第三の目は、有る意味、客観的な視点でも有るでしょうが、究極の客観視は、神仏の目を意識しなければ成り立たないでしょう。
そして、正しい世界観です。
神仏の存在の有無もそうですが、死後の世界の有無、霊界の有無、天国地獄の有無など目に見えている現象の裏側を支えているモノ、目には見えない世界の真実を知ることなく正しい判断は不可能でしょう。

正しい判断が出来なければ、正しい行動も出来ません。
正しい行動が出来なければ、間違った、望んでもいない結果を引き寄せてしまい、後で後悔することになるのです。

しかし、ここで書いているようなことは、ある前提の元には無意味なモノとなりかねない側面があります。
それは、唯物論者や、無神論者の言う世界観が正しい場合です。
神仏なる存在も無く、魂も無く、死んだら終わりであるという世界が真実で有るのなら、自分を中心に考え、好きなように生きれば良いのです。
犯罪まで犯せば自分の自由も奪われるので法令を遵守する中で要領よくうまく生きれば良いのです。

しかし、第三の目で見ることなく生きた場合の幸福感は、どのようなモノになるでしょう。とても薄っぺらなモノでしか無いのではないでしょうか。



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