陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2016-09-29

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宗教とは何か?

最近色んな人と宗教に関して話し合っている時に
ぼんやりと感じていたことが有る。
宗教に2つの側面が有ることだ。

陰と陽の2つの側面でも有るのだろう

陽の面
御利益の面であり、頼るとかすがるとか依存するとかの面である
その教えに従って生きると起こって来るであろう現象の面に重点を置く見方がある

陰の面
真理を求める、道を求めるという面
神仏の願いとは何だろうかという探求の面が有る
神仏の願いを衆生に知らしめるために
いつの時代にも預言者(予言ではない)がこの地上に降ろされている
神仏の願いを説明すると同時に私達が住んでいる世界の真実を
目に見えない世界を中心に教えようとしているとする見方がある。

陰陽、紙の表と裏の関係では有るが

私から見て、おかしくいと見えている人たちに観ずることは
どうも、陽の面、御利益の面を中心に観すぎていること
宗教を信じる人も宗教を信じない人も、この傾向の人たちが多いようだ。

御利益、安心安寧などを中心にして強く見過ぎると
これは、個人の都合を中心に観すぎることになる
これが、どうも大きな問題のようだ。

陰の面、真理とか、この世の真実の姿を知り
そのことをふまえて心を修正し生きていくならば、
当然の如く良い結果につながっていくことは予想される。

御利益を願わなくても、良い結果はやってくる事になる。

自分を中心にして、もらうことばかりを考えていると
騙されることは、現実の世界でも詐欺などに会うようなことがいっぱいあるように
間違った宗教の中に引き込まれる場合も多いようだ。

また、逆に、そのような反動から見えない世界を全て否定して
宗教そのものを否定してしまう考えも有る。
将来への投資話を否定して社会全体をじり貧の方向へ向かわすような考え方にもなる。

私から見ておかしな世界観(宗教観)を信じてしまっている人たちの話を聞いていると
真理を求める面よりも、自分の事ばかりを考えているようなのだ。

やはり、陰陽の両面、両目で物事は見るべきなのだ

ちなみに、私は、どうも、陰ばかりを見て陽の部分から逃げようとしている面がある
御利益に対して、拒否感が心の奥底に有るようなのだ。
何が原因なのか、よく分からないが
過去世の何らかの体験がそうさせているのかもしれない。

やはり、御利益の面も強く見ていかなければならない
正しい宗教、正しい世界観を持って生きていくなら
奇跡もまた当然のこと。
祈りという側面をもっと観る必要が有るようだ。

昔、透視力や念力をやっていた頃
ユリゲラーなどに触発されて、そういう世界なのだと信じて訓練していると
次第に出来るようになってきた事が有る。

ただ、カードでの透視が100%出来た後に「凄さではなくて、素晴らしさの方に心を向けよ」というインスピレーションが降りてきてから止めた経緯がある。

私は、今、現実を生きているうちに、自己限定の中に暮らしているようだ
もっと、願うという側面、祈りを大切にすることを考えなければならない。

私は、運がとても良いとは思っているが
御利益を願うという思いにある種の自己限定がかかっているようにも思えるので
その限定をどのようにすれば解除できるのか、深く考えなければならないようだ。



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