陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2016-08-26

Top / FrontPage / 2016-08-26

相模原障害者施設襲撃事件の原因

多くの人たちを殺傷したこの事件の犯人の動機など議論されているが
これは、フラクタルの森に入れて考えると
ハッキリと見えてくることだ

画像の説明
その行動(陽)を支えているのが思い(陰)の中身であり「思想・宗教」だ

犯人の行動から逆にたどっていくならば
見えてくる彼の宗教は、「無宗教」という世界観となる
自己の中の正しさが主体なるモノとなっている
左側の世界観である
右側の世界観で有るならば、たとえ脅迫されたとしても出来る事ではない

これは、ハッキリ言うならば「信仰心」の問題である

左側の世界観、無宗教、唯物論の世界で考えるなら
サイトなどにそのような意見が散見されるように
犯人の言うような障害者無用論が出てくることもうなずける

逆に右側の世界観のように
全ての存在に、神々の願いが込められているということなら
その時代時代に色んな預言者が出てきて「宗教」を興し民衆に伝えてはいるが
その願いの中身はなかなかハッキリと分かることでは無い

ただ、何事も偶然に起きていることでは無いならば
障害児などをどのように見て、どう思い、どういう行動ができるのか
それが問われている
ダイナマイトや原子力なども
その力をどのように思い使いこなすのかが神々から問われている

唯物論の影響下にある人達は、「信仰」を単に「たよる」モノのように見てしまうようだが
「信仰」の中心には、天の願いがある

明らかに子供達である全人類の魂の成長を願われていることは見て取れる
原子力にしても兵器として使うことしか考えない人もいるだろう
恐怖心から脱原発を考えてしまう場合もあるだろう
そのエネルギーを世界の貧困を無くし紛争を無くしていく方向に使おうとする人もいる
天の願いを忖度するなら、その膨大な力をどう使うのか試されているのだ

障害者にしても同じ事が言える

犯人のような発想の背景には
明らかに、神々の願われている事と逆の方向の世界が有る

思考停止せずに考えれば分かることだ
偶然に生まれ、有限の世界を、瞬間的に生きているだけならば
原子力は兵器として考えるか
脱原発する方が良いと考える傾向を強くするだろう
障害児も生まれてくる前から処分してしまうだろう

人は必然として生まれ、無限の世界を、永遠に生きている世界であるなら
そして、神々が願われている事が有るとするならば
天をも感動させるような我々であって欲しいと願われているはずである
自己中心に世界を観るのでは無く
神々の如き思いで世界を見て対処して欲しいと願われているはずだ

同じような構図が、経済にも当てはまる
信仰心無く結果を求めるならば
自己中心の願いとなり、自己の利益のみを目標にしてしまうために結果至上主義を蔓延させ、
その反動もあって、福祉社会、福祉国家を求めてしまうことになる
これは自分たちだけが良ければ良いという考えで蛇行している現象です

世界は、まだ困窮し、紛争が耐えない現実が有る

福祉社会は、単なる結果の側面として出てくることであり手段でもある
経済の目的と使命は、経世済民(世のため人のため)(陰)とGDP(商品とサービスの総額)(陽)である
これが紙の表裏となり、陰陽の循環が起こり
渦となって世界に広がっていくことで
この地球全体をユートピアへと導いていくことが出来る

そのためには、「信仰心」がひつようであり
その状況下で「正しき心の探究」する姿勢を忘れないこと
天の願いに耳を傾けようとする姿勢です

くれぐれも自分だけの声を聞く事なかれ



コメント


認証コード(9466)

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

備前焼