陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

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不思議な感覚

先日、祭壇に手を合わせた瞬間に不思議な感覚を味わった。
ハッとした感覚であり、言葉にはしにくいけれど、逆に言葉としては知っていること。


これはお経の中にある。
「自他は別個にあらず一体なり、共に仏子の兄弟なり・・・」
我々は、肉体が本質ではなく魂が本質であり、一時の間肉体に宿って生きている。
本質は魂であり、波動というエネルギーを持った存在である。
肉の目で見ると、自分という存在は、あくまでも自分であり、他者や環境とも、そして神仏とも別個の存在のように感じているが、波動レベルで考えるならその感覚は違ってくる。

たとえは適切ではないけれど、今、文章を作っているパソコンとい道具は、目の前に在り物質、粒子として手に触れているが、この道具を通してつながっている情報という波動は、インターネットを通じて世界中につながっている。その情報にアクセスし、認識することが出来れば、あらゆる力を得ていることになるだろう。
その力は、目の前の道具の中にあるだけではなくて、世界中のクラウドとかいう中にもある。隠されることもあれば、カギを強引に開けて垣間見ることも出来る。
カギさえ持っていて、その波動という情報を粒子に変換することが出来れば、なんでも作り出すことが出来るということ。
細かな道筋は理解できないが、可能性だけを考えるなら、この地上にある全ての存在を手にすることも可能だろう。

信仰の世界、この意識の世界は、これに似ているのではないだろうか。
本来の世界、神なる世界は、この発展途上のテクノロジーの奥深くにある可能性がある。

潜在意識

この表面意識の中、3次元世界の中で色んな道具を使い、その意識を表現しようとしているが、その意識は、この図の中央に在る一本の光の線として光速を無視し一瞬に全宇宙につながっているのかもしれない。
祈りの波動も瞬時に神仏に伝わるとも言われているが、人間の体内で神経の作用が末端と中枢神経で瞬間的につながるのと似ているのかもしれない。

その中身の違いによってつながる先が違い、神仏にまで一直線でつながるものと、そうでないモノとに分かれてしまうのかもしれない。
量子もつれとか、重ね合わせとかいう状態があるらしいが、おそらくこの事とも関連している。
全ては波動であり、それが物質化したり具体化するということでこの世は成り立っている。本質は波動であり、エネルギーであるということ。
アカシックレコードとかいうモノも、あの世が有り天国地獄なるものも存在するということとも関連している。
そして、波動の原点は一点にあり、たどれば、造物主に行き着き、あの世の天国も、地獄であっても現実として極端な状況として物質化する。
その現象は、極端というか、この3次元世界との差が10倍ほどあると言われているが、天国の喜びと、地獄の苦しさとは、それだけの差が出てしまうということ。
どれだけ、この世での悪事がわりに合わないことなのか考えさせられてしまう。



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