FrontPage/2025-03-12
人間は、自然に生まれ進化してきた?
以前、このように考えている人と議論したことがある。
この方は、昨年亡くなっており、天国的で良識もあり、色々世話にもなったけれど、はたして、今、その魂はどうしておられるのか心配ではある。
このようなことを考えていると、引き寄せる事にもなるだろうが、その議論の続きをしてみる。
彼が言うには、有機物である生命体であれば、その理屈が成り立つと思っているのだ。
正直言って、私自身も同じように思っていて、進化について考え始めたころ、確かにそのように信じていた。
それ以上は、思考停止しており、そのように信じ込まされていたのだろう。
「自然に生まれ進化してきた」という結論を別のモノに当てはめるとおかしなことが始まってしまう。
私が粘土から作る「器」を「人間」代えてみる。
「この器は、自然に生まれ進化してきた」
確かに、そのようにも言えるだろうが、ただ、その「自然」という中には、作者の思いと行い、手が加わっているということを除外している。
この要素を加えずに進化を論じることは出来ない。
作られることに関わった「思い」と「行い」が存在するということ。
テレビやラジオ、スマートホンなどでもそうであり、木などで作られた家具や家などでもそうである。
ただ、自然に出来たものではない。
自然ということを、偶然とまで翻訳するともっと悲惨である。
これらは、より多くの人々の思いと行い、そして創意工夫の積み重ねによって出来あがっている。
偶然にそこに在るモノではない。
これらが、有機物であれば、自然に創意工夫、努力を積み重ねることで完成されるなどと考えることは成り立たない。
必ず、創意工夫し、努力する主体が必要になる。
人類は、未だ、単細胞一つ生命体を作り出せない。
過去、おそらく、医療や研究などの為にチャレンジもされていただろう。
しかし、細胞だけでなく、生殖を繰り返し増えていくような生命を産み出せていない。ただ、元から存在するものに手を加えて実験しているだけのこと。
要するに、何であれ、製作者が不可欠だということ。
人間や生物の創り主が分からないからと言って、それを無きものにしてしまう事は、どういうことになるだろうか。
生命体の製作者を、神とか、造物主とか、創造主とか、サムシンググレートとか、天とかいうことも出来るだろうが、それらの存在を消し去ることによって、その立場に入れ代わろうとしている不遜な動機がある。
そこからつながる「オゴリ」がある。
自分自身、自分たちが主たる神であり、なんでも自由だという錯覚が生まれてくる。
制作物には、必ず、製作者の思いが有り、願いがあり、祈りまでも伴ってあるものだ。
ただ、深く考えず、ただ生活の為、お金の為、生きるために働いているだけであっても、それらのどこかに「お役に立ちたい」、愛の為という高貴な精神も、制作の過程の、どこかに含まれている。
それが経済の中心に、本来在るモノであり、その循環で社会は成り立ち、それこそ、自然に素晴らしい世界が産み出されていくのである。
しかし、主たる神の立ち位置に自分自身を置くようになるのであれば、今だけ、ここだけ、自分だけが進化すればよいというような考え方になり、自己中で利己的な考え方になる。そして、思い通りの自己実現を成しやすくするために、良識あるような言動を繰り返す。
世の為、人の為と言いながら、詭弁をろうし自己実現を計ろうとする。
これが、ディープステートたちであり、グローバリストたちであり、官僚組織が利用される。
彼らの思いを実現するために、世界が不況の中に有っても、最大の収入を得るのに好都合なのは、紛争を起こし、戦争を起こすことであり、軍産複合体とも言える組織たちであり、混乱に油を注いでいる。
もっと、素直に、神を、この宇宙を創られた造物主の存在を信じることだ。
そして、私たちの魂の中に神と同じものが宿っていることを信じるべきだ。
その魂の中に潜んでいる高貴なるものを無視したまま、この世を去るとすれば、死後、その本来の存在とかけ離れた思いと行いに気づくことになるだろう。その時に、どれだけの後悔の思いにさいなまれることになるのだろうか。
それが、地獄の責め苦としても存在しているようだ。
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