陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2025-03-11

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造物主と人とは、一体である

神と人間とは一体であるということが言われているが、このことは、単に言葉だけでのことではなさそうだ。


量子力学の世界で、素粒子は、観測されるまでは波だが、観測されると粒になるという。
この意味が、どういうことなのか専門家たちにも不可思議な事であり、理解できないらしいけれど、私は思うのだ。
まさしく、神と人とは一体であるということ。
比喩で言うならば、私たち自体が造物主の一部であり、その意識が神の神経組織の一部なのかもしれないということ。

アカシックレコードなるモノの存在が言われていて、そこには、私たちの人生そのもの、その全てが記録されているという。
これは、造物主の記憶庫であり、私たちの魂の転生輪廻の記憶も全て、造物主の記憶の一部として保存されている。
私たちの思いそのもの、悩みや苦しみ、見て感じたもの、全ての事象が造物主の記憶庫に記録されているのではないだろうか。
それらの伝達保存手段として、素粒子の存在が関わっているのではないだろうか。それが、量子レベルの中で起こり、光速を越え、瞬時に伝達され保存されている。
あまりに膨大過ぎる情報ではあるが、それらすべてが記録されている世界があるとしか思えない。

大川隆法総裁の教えにもあるが、魂の記録の中に、魂として生命体に宿った経験の記憶をリーディングによって話をさせることが出来る。
どれだけ古い魂でも、人型生命体に宿る以前からのモノでも、どれだけ遠い宇宙でのことであっても可能のようだ。
もっと、身近なことで言えば、死後、反省のためも、その人の人生ドラマの詳細が見せられるという。
言葉にしていない独白であっても明確に記録され、心の中で思っているだけの事でも詳細にすることが出来る。
アカシックレコードに、どれほどの情報を記録されているのか分からないけれど、最近の科学のデジタル技術にしろ、AIにしろ、人工知能にしろ、それらの発達を見ただけでも、その延長線上に在るモノが見え隠れする。
記録され、保管することに限界はなさそうだ。
死後、魂というモノがあり、あの世に存在し残り続けるならば、霊界は、これまでの歴史を考えれば満杯になってしまうから、信じることは出来ないという人も居たが、それは、考え違いにしか過ぎない。
自分の想像するレベルを超えると受け入れられないだけの事。

今、量子コンピューターが産み出され、量子力学の素粒子の更なる発見が人間の知的レベルの可能性を広げてくれるだろう。
私の陰陽学という考え方も、素粒子の持っている世界観を加えることで、もっと分かり易くなる可能性もある。



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