陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

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信仰心

結局は、本当の信仰心があるかどうか。
そして、神仏の願いに沿った「思い」を描くことが出来、それに準じた「行い」が出来るかどうか。
さらに、その検証としての反省ができるかどうか。


このレベルの違いに、大きな格差があることは、私自身の経験、その推移を見ても思い知ることが多い。
昨日と今日の悟りの差をうまく表現することは難しい。
しかし、過去の私と現在の私と、確かに大きな違いがある。
過去の私の信仰心を思い返すと、とても恥ずかしい面があり、まだまだ感をぬぐえない。
一つずつ、一歩一歩進んでいくしかない。

神仏の存在の有無、造物主の存在を感じるのに今まではそんな存在も在り得るだろうな程度に思っていた。
しかし、最近は同じことを人に説明するのに、同じことを口にしていてもそこに含まれている感覚に違いが出てきたように思う。
同じ言葉でもそこに在る意味するモノに違いが出て来ている。

最近は、造物主を説明するのに、備前焼で造る器を引き合いに出すことがある。
目の前の器に対して、これが偶然に出来たものだと思いますかという質問をすることがある。
これには、さすがに誰であれ「偶然」に出来たという人は居ない。
だが、人間をはじめ生命体、色んな生き物がいるが、それらが、今そこに在るのは「偶然」だという。
「偶然」だとまで言わないけれど、そのように言っているに等しい。

人間を示して、これがどうやって進化して今のような姿になっているのかと問えば、ダーウインの進化論をイメージする人が多いだろう。
この進化論は、環境の変化で「突然変異」を起こし、それが「適者生存」することで、「自然淘汰」され、それが繰り返されてきたことで「進化」してきたということ。
突然変異自体、一例でも環境に順応できる個体があることを条件としている。何分の一かの確率で進化した個体が必要であり、その生命体が子孫を残せる機能を保持する必要が有る。
このような理屈を説明するまでも無く、粘土で作られた器でさえ、壊れずに水などを保持するための形になるまでには、工夫や努力が不可欠である。
器でさえ「必然」という言葉が一緒に在るということ。

この人間や生物たち、微生物であれ「偶然」に出来たなどと言ういうことは在り得ないことである以上、この進化論が、まるでカルト宗教の如くであることを示している。
信じ込まされているだけだということ。
ということは、間違った信仰心を持たされている未開の地の人々の如くである。

このところから、原点に帰りスタートする必要が有るということだろう。



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