陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2025-02-15

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運を良くする世界観

世界観の中には、運を良くするものと、悪くするモノが有るだろう。
もちろん、だからと言って利益誘導的にこちらの世界観を持った方が良いと言っているわけではない。
それは、どちらを信じるかは各人の自由が有るからだ。


ちょっと深く考えただけで、二つの世界観が有れば、どちらの世界観の方が良いかという答えは出て来るだろう。

例えば、「死後の世界は、有るか無いか」ということでも言える。
この答えは、深く考えず、すぐ答えを出すとするなら、「わからない」という答えが正解だ。
その理由は、本来、誰も死んだ経験が無く知っているはずがないからである。
しかし、これは答えになっていない。
この「死後の世界がある」という世界観と、「死後の世界が無い」という世界観の二つがあり、どちらの世界観を選択するのかは、結局は、どちらを信じているかだけのことだ。
有るようで無い世界も、無いようで有る世界も、結局は、わからないということ。
ただ、どちらを選んだ方が得なのかを考えるなら、やりたい放題のことが出来るのは「無い世界」であり、「有る世界」では、原因と結果の法則で考え、その責任を考えるなら無制限にやれるものではない。
さらにその責任を死後の世界で取らされるなら考えモノでもある。

「無い世界」を信じるなら、当然ながら、心の中で良心の部分がどんなに声を張り上げようが、やりたいこと、したいことに対してブレーキをかけることは少ないだろう。
考えることは、その結果が、犯罪者となって罰せられるかどうかでブレーキを掛けらるかどうかであり、抜け道を考えれる頭の良い者にとっては、当然ながらハードルは下がるだろう。
「有る世界」を選ぶなら、やりたい放題のことが出来にくくなる。
今だけ、ここだけ、自分だけのことを考える者にとっては、得るものが少なくなり、その視点で言えば得策ではないと言えるかもしれない。
しかし、その反対の世界観の場合は真逆となる。

あの世があり、天国地獄なる世界があるとして、原因結果の法則があの世にまで及ぶとすれば、地獄に堕ちるようなことは避けるべきだとなる。
死ぬまで、その犯罪行為が露呈せずに反省の機会を得ること無ければ、地獄の苦しみの中に落ち込むことで、運が良いとは言えないことになるからだ。

間違った世界線を選ぶなら、善悪の判断も、良いか悪いかの判断にも狂いが生じることになる。
これは、フラクタルであり、個人の事が社会全体のことにつながる。
社会全体が地獄の世界になってしまう事は想像に難くない。
そのように考えると、損得で考えても、どちらを選ぶべきか決まって来る。
さらに、造物主の視点で考えるなら、全体が地獄に向かうような宇宙を創られることはあり得ないことだ。
もちろん、考え違いを起こして目先の事しか、自分の事しか考えない人が出ることは想定済みだろう。人間の体でガン細胞が出来て暴走することもフラクタルであり同じこと。
そのとき、ガン細胞でも切除することもあるけれど、全体の意識が変われば、手術をせず抗がん剤を使わなくても、その暴走を止めることも可能だろう。
健康な体、健全な社会を希求する事には、造物主の願いがあり、その願いと共に在るようなも自分であれば、いやでも運が良くなっていく。

私は、開運には、これが絶対法則として在ると信じている。



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