陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

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道を間違う初めに在るモノ

それは、ダーウインの進化論。
言い換えるなら「無神論」というカルト宗教の蔓延にある。


この進化論は、何故、進化できたのかと言えば、一言で言うなら偶然に進化したということになる。
その内容は、環境の変化で「突然変異」を起こし、その変化が「適者生存」というふるいにかけられ「自然淘汰」を受けて「進化」をしてきたということのようだ。
進化には、突然変異と適者生存と自然淘汰という三つの要素が必要だということ。

この考え方を整理するなら、適者生存と自然淘汰以外は「偶然」ということになる。突然変異という偶然が積み重なって、海で生まれた生命体が進化を繰り返しと猿になり、そして、人間に進化してきたということのようだ。突然変異のたびに進化(成功)と退化(失敗)という二つの道がそこにあるのに、常に進化という成功の道が偶然に選択されるという。生殖を繰り返し、生存を続けるためにはサイコロのような確率で良いわけはない。常に成功という目を出さないかぎり、途中で命の連鎖は簡単に崩れてしまう。色んな理屈で進化論を論じたとしても、そこには、何らの意志の働きは入っていないとするなら、人類は偶然に進化してきたという結論にしか至らないだろう。人類と、私が粘土から作る器と比べて、どれだけの違いがあるか比べようも無いことは事実だ。器は焼かれ固まったとしても擦り潰し粉末にできれば、また再生の道が無いわけではない。この人類の体が、偶然に出来たと言っているに等しいことを認識する必要が有る。同じく、私が作ったコップが偶然に出来てきたと言い張る人は居ないだろう。目の前のコップが在るためには、誰かが造りたいと思うか、誰かが造って欲しいと思うことが無ければ無理。木の葉やくぼんだ石を器にするにしろ、そのように使いたいというイメージが不可欠。

要するに、進化論を信じている人たちは、私が作った器も偶然に出来ていると言っているに等しいことになる。
その愚かしさに気づくことなく生きているということは、どれだけ愚かしいことであるのか。

人間を産み出した存在がイメージできないとしても、「無知の知」を認め、神でも、創造主でも、天でも、サムシンググレートでもいいけれどその見えない存在を何とかして信じる必要が有るだろうと思う。
その存在を無視し、無神論を信じるということは、無宗教に通じることになる。神なる意志が私たちの存在に関わっている以上、創造主が私たちに何を願われているのか、私たちの存在意義の答えを求める縁につながることは無い。

宗教とは、救いや安心安寧を求めるためにあるのではないということだ。
救いや安心安寧は、結果として得るものであり、動機として、心の中心に置くべきものではないだろう。頭の中にあるべきものとも言えるだろう。
この宗教も、経済と同じように結果至上主義的な俗物と成り下がっている。利潤や成果は、結果として受け取れるモノであり、その本質は、宗教という文字に在るように、宇宙を指し示す教えである。
思いの中心に何があり、何が重要であるのかを知ることである。
一言で言うなら「愛」について学べということ。
現代社会ではその愛も誤解され、経済も低俗なモノに成り下がっている原因は、この無神論であり無宗教というカルト宗教に起因している。
(別の角度から言えば、共産主義の中に住み、形を変えリベラル、左翼的思想の中に在って、左脳的な考えばかりに支配される中に住んでいるということ)

神を求める気持ちなく、霊的な世界を旅することは不可能だろう。
原点の出発点が間違っている以上、唯物論に支配され、心の探求など不可能であり、悪霊悪魔のそそのかしを簡単に受けてしまうだろう。



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