陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2025-01-11

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陶芸体験

時折、土ひねり体験者が訪れたり、小学校などで体験してもらうことがある。
その時に伝えることは様々あるけれど、たっぷりとした時間もない。


なにをどう伝えるべきなのか、いつも思い悩むことではある。
作り方がメインとなるが、それだけでは物足りないものがある。

私自身、なぜこの仕事に入ったのかというと、最初にはモノ作りが好きだったということがある。
ただ、好き嫌い、上手か下手かだけで体験を終わらせてほしくはない。
もちろん楽しむことは重要な事だ。
その経験で、楽しんだというだけでなく、一体どんな学びが得られたのか、陶磁器がどのようにして造られるかだけを学んだのではもったいないことだ。

どのような物作りにも、それぞれに具体化していかれる過程、工程にはそれぞれのモノが在るだろう。
鉛筆でも消しゴム、ノートでも、服や靴であっても、その材料に違いがあり作り方もそれぞれだ。

当然、違いがあるけれど、しかし、どれにも共通のモノがあり、共通の流れがある。
フラクタルとして、自己相似性として、似ているものが有る。
それは、いつも使っている図の中にある。

基本

全ての課題をひとくくりに「仕事」の中に入れているが、勉強にしろ、家庭での家事にしろ、結果としてすぐに目の前に結果が現れないようなこともあるけれど、全て流れとしては同じだと思う。
単純な仕事にも、複雑な政治や経済の仕事にしても同じだと思う。
見て・思って・行いがあり・結果が出て、それを繰り返し、その課題(なに)の発展がある。
どんな仕事も、フラクタルであり似ている。

ただ、現代社会の問題は、その流れの中で大切なことを見落としているということだ。
目に見えやすい表面的なこと、行いと結果だけ見て一喜一憂して評価しがちである。
その課題自体の認識が低く、一番大切な「思い(なぜ)」が希薄になり、無視されやすく、結果ばかりを見ているということ。

この思いが重要であり、その中身と強さ、そのイメージが、結局は結果に反映していくということを忘れている。

その造り出されたものが、どんなに綺麗に見えたとしても、心を打たず何ら役に立つことも無かったとすれば、その心の中でイメージしたものが、そのようなモノではなかったということになる。
この一番重要な「思い」を探求しなかったということは、人生の中のあらゆることを探求しなったことであり、人生を無駄に過ごしてきたことになりかねない。
それぞれの人生を素晴らしいモノにするために、この思いを大切に扱ってほしい。
この思いの中にあり共通している重要なモノは何であるかというと、「愛」、「与える愛」である。結果ばかりを求める偽物の「奪う愛」ではない。愛が有り、知があり、反省があって、発展があるということ。
この循環で、人生も社会も全てが素晴らしくなり、幸福な世界が広がっていくだろう。
「与える愛」と言っても、難しくイメージもしにくいけれど、その愛の原点に在るモノは何かと考えると、やはり光を感じさせるものだろう。
陶芸に限らず明るいイメージが、全ての仕事の中に求められている。
人生も仕事も陶芸でも、初めは旨く行かないけれど、それでもあきらめず積極的に取り組んでいると面白くなってくる。
結局、何が大切かというと、その心の中を神さまに見られたとして、微笑ましく見ていてもらえること。
結果が思った通りにならなかったとしても、そのイメージに次第に近づいていくことなので、背極的で明るいイメージを持ち続けることだろう。
その努力の過程をも楽しんで見られてもいるだろう。
このプラスの循環を神さまは求められているということに尽きると思う。



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